史書の記述の中で、「年号」が入っているものは明確な検証がし易くなります。
例えば後漢書倭伝では、後漢代における倭の遣使記述が有ることは、よく知られています。
●建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
●安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
⇒これは魏志倭人伝には無く、「後漢書倭伝は魏志倭人伝の要約ではないという確実な証明」になっているのですが、何故か、さて置かれて「要約である」という見方が通説のようになっています。
出典が明確でないことが影響している可能性が有りますが、実は上記と同じ年号の遣使記述が別の中国史書に有ります。
(「魏志倭人伝への旅」というブログを書いておられる「hyenanopapa」さんから教えて頂きました、また「西嶋定生」氏も著書で紹介されています)
「後漢紀」袁宏
●中元二年春正月辛未初起北郊祀后土丁丑倭奴國王遣使奉獻
●永初元年十月倭國遣使奉獻
⇒参照用に、中国サイトでの検索結果画面を文末[補足]に添付しました。
これで、范曄は魏志倭人伝とは別の史料を見て後漢代の遣使記事を書いたことは明確に証明されます(=要約ではない)。
ただ、これは既に分かっていた話ですが、それでも「要約である」という見方が出来上がってしまっているため、東夷伝の他国での年号記事を紹介。
(1)高句麗
[後漢書]建武二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬。二十五年春,句驪寇右北平、渔陽、上谷、太原,而遼東太守祭肜以恩信招之,皆復款塞。
(2)扶余
[後漢書]桓帝延熹四年,遣使朝賀貢獻。永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。
(3)東沃沮
[後漢書]元朔元年,濊君南閭等畔右渠,率二十八萬口詣遼東内屬,武帝以其地為蒼海郡,數年乃罢。至元封三年,滅朝鮮,分置樂浪、臨屯、玄菟、真番四郡。至昭帝始元五年,罢臨屯、真番,以并樂浪、玄菟。玄菟復徙居句驪。
(4)三韓
⇒これらの年号と記事が、魏志では記載されていません。
また上記は部分抽出であり、東夷伝全体では、もっと有ります。
また「烏桓鮮卑伝(後漢書)・烏丸鮮卑伝(魏志)」でも、同様に「後漢書にあって魏志に無い年号や記事」が多くあります。
年号という明確な事項の有無なので、過去の学者などの方々が見抜いて当然と思うのですが、「要約である」という見方の方が定着してしまっているのは不思議な話です。
結果的には、「邪馬台国論議は後漢書が要約ではないという認識に立って新たに組み立てることが必要」と感じます。
また、新たな組み立てでの検討も部分的に実施してありますが、先ずは「要約ではない」証明をさらに固めておくために、今後も続けて証明記事を書いていく予定です。
以上
[補足]
「後漢紀」での倭の検索結果(遣使2回)
補足以上