邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B005)”要約ではない”の補足検証1「石鏃」

「証明1~4」で完全証明と考えていますが、通説とは真逆の結論になるので、補足説明などをして行きます。

 

先ずは「証明1鉄鏃の有無」の文末[補足]に書いた「石鏃」に関する考察です。

「鉄の古代史」という本を書かれた考古学者「奥野正男」氏の研究を引用するブログを参照します。

-----引用開始-----

”刮目天のブログ【検証6】倭国大乱の実相は?”
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/80736449dff443d2d8c2b720f82a7ba0

奥野正男「鉄の古代史ー弥生時代白水社、1991,pp.306-307)。したがって、鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べることにより戦闘の様子をある程度推測できるだろう。

下の表は倭国大乱以前の弥生時代中期から、大乱が起こる後期・終末期・古墳時代初頭にかけて鉄鏃・銅鏃出土の分布を表す。奥野正男がまとめた後に鉄鏃をはじめとして鉄器が相当出土しているが、時代区分を明確にした奥野の調査によって当時の鉄の流通ルートなどが明確になっている。

特徴を見ると、中期に出土する鉄鏃の数は全国的に、後期以降に比べてわずかであり、銅鏃はさらに少ない。福岡県が他県に比べて多少多いが、「この時期にはまだ、鉄鏃と石鏃が併用されていることが少なくない」し、後期以降でも九州中部や東部では石鏃が併用されている。九州以東では銅鏃と石鏃が併用され、鉄鏃は一部の地区を除きほとんど見られないようだ(前掲書P307)

-----引用終了-----

鉄鏃(及び銅鏃)と石鏃の併用」が書かれています。

後漢代は弥生時代になりますから、以下が言えるでしょう。

(1)後漢書の記述対象の後漢代は、弥生時代中期後期で「鉄鏃」が使用されていた

(2)金属鏃(鉄鏃・銅鏃)と石鏃が併用されていた

(3)骨鏃の話は出て来ず、使用されている内に入っていない

⇒結果的に「後漢代に合わせる意図でも、鉄鏃を削除すると逆に後漢代の実態と異なることになる」という矛盾。

これでも「范曄が鉄鏃を削除した」と考えるのかどうか。

以上

[補足]

鉄鏃に関して、以下のような見解も頂いています。

<范曄には後漢時代に倭で鉄鏃が使用されていたという情報がなく、漢書地理志粤地と魏志倭人伝の両書を参照した上で、後漢時代の鉄鏃使用に疑問を抱いて、後漢書倭伝の記述を選択したとは考えられないでしょうか>

→これに対しては、以下の見解が参考になると思えます。

<5世紀の范曄が、ほぼ2世紀中の倭の風俗について、3世紀に編纂された魏志倭人伝の情報を修正すべき新たな情報や思考を持っていたと考えることは難しいのではないか>

→この状況であっても「范曄が鉄鏃削除を実施」と見るかどうか。

 

さて、約2年前に以下のように「鉄鏃の有無」の違いを発見してから、ずっと検証してきた内容がまとまって今回ブログ化出来ました。

後漢書が要約ではない」ことの影響は大きいと思われ、更に綿密な検証を続けて行きます。

追記以上