邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B009)魏志と後漢書の異国伝比較による「後漢書は魏志の要約ではない」証明

後漢書魏志の要約ではない」という証明を行います。

1.王朝の年代と正史の成立年代

まず背景として、「後漢と三国(魏・蜀・呉)については、王朝が存立した年代と正史の成立年代が逆転している」という事実が有ります。

下図に示すように、後漢書の成立の方が約150年程度も遅いため、「後漢書東夷伝は、先行する三国志の魏書に含まれる東夷伝を参照し要約して記述した」という見方が通説になっています。

三国志の作者は「陳寿(ちんじゅ)」、後漢書の作者は「范曄(はんよう)」

(以降は「三国志の魏書」について、よく使用されている名称の「魏志」とします)

2.魏志後漢書の異国伝比較と要約判定

前項の「要約」という見方は、実際には無理があることを証明します。

魏志には中国以外の国を記述した記録(「異国伝」とします)として、「東夷伝と烏丸鮮卑伝」があり、併せて三国志の巻三十に収められています。

東夷伝に「倭」があり、邪馬台国論議における中心資料として取り上げられて来ています。

それに対して後漢書には、他の異国伝として「南蛮西南夷伝・西羌伝・西域伝・南匈奴伝」もあります。

これらは注目されることが少ないですが、「魏志にはなく後漢書にはある」ということで「要約かどうかの判定」には重要になります。

比較表にまとめます。

当然ながら「無い文章は要約できない」ので、「南蛮西南夷伝・西羌伝・西域伝・南匈奴伝」の要約は〇X判定ができて「✖」となります

これだけでも「後漢書は要約ではない」ことが見えて来ていると思いますが、更に烏丸(烏桓鮮卑伝と東夷伝の要約判定を次項で行います。

3.烏丸(烏桓)鮮卑伝と東夷伝の要約判定

烏丸(烏桓鮮卑伝と東夷伝の記述比較と要約判定を行います。

挹婁伝を除く伝で「魏志に無い記述が後漢書にある」ため、前項と同じく「ない記述は要約できない」ので要約判定は「」となります。(「挹婁伝」は下段の「注」で検討しています)

これにより前項と併せて、「後漢書魏志の要約ではない」という証明になっていると考えます。

(注)

挹婁伝に関しては、後漢書に無い記述が魏志にあります。
この場合は「削除」という形で要約可能。

しかし、挹婁伝の「黃初(魏の元号:220年-226年)」記述が、魏志にあって後漢書にない理由は、「黃初が魏代」であり、後漢代では無いためと推定されます。
もし范曄が魏志挹婁伝を要約した場合は、魏志の記述を詳細に見て、上表のように挹婁伝の途中に一箇所ある「黃初」の記述を発見して削除したことになります。
約150年後に范曄が、主題ではない異国伝において、そのような細かい作業をやったでしょうか?

結果的に「挹婁伝も要約ではない」と見るのが妥当と考えます。


なお、後漢書に魏代の記述が無いのは、挹婁伝以外も同様になっています。
「范曄が約150年も後から魏志異国伝の記述を詳細に見て、魏代記述を丹念に削除して後漢書を記述した」ということは考えにくいと思います。

また、異国伝の中で、他伝が要約では無いのに「挹婁伝だけは要約」とするのは無理があるでしょう。

しかし、上掲の簡潔な証明を提示しても、通説を続けたいと考える方々からは、「東夷伝、或いは倭伝だけは要約」というような主張が出てくることも想定されます。

それは、例えば”「東治」(魏志)と「東冶」(後漢書)との比較では、「東治」が正しいと見る”というような考え方から来ていそうです。

つまり魏志後漢書の内容比較で、「後漢書の内容は間違っている」という判断から、「後漢書倭伝に独自情報はなく魏志の要約で、しかも要約に間違いがある」という見方につながっていそうです。

しかし、これは個人の考えによる判断が入ることになります。

一方、上記の”原資料「X」の存在”は純粋な論理的な証明です。

結果的に、内容論議の前に「魏志の要約」は論理的に否定され、【後漢書は原資料「X」に基づいて書かれた】ということが結論になると思います。

以上