邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B014)魏志に有って後漢書に無い文言

異国伝で「魏志に無くて後漢書に有る」記述を紹介してきましたが、逆観点の「魏志に有って後漢書に無い」記述もまとめてみます。(原文は主にWikisource使用)

 

①「鉄鏃」(倭人伝と倭伝)

この件は当ブログの最初の記事で紹介しています。

(B001)後漢書は魏志の要約ではない証明1「鉄鏃(てつぞく)の有無」

魏志:竹箭或鐵鏃或骨鏃

後漢書竹矢或以骨為鏃

これに関しては魏志との対比だけでなく、「後漢書の記述は『漢書』地理志粤地にある「竹矢或骨為鏃」とほぼ同じ」であることに留意する必要があると考えています。

また鉄鏃は弥生時代も使用されていたので、「後漢書も鉄鏃が入っていた方が史実に合致する」という点も注目になります(骨鏃と石鏃も関係しますが、上掲ブログで詳説)

 

②「供給二郡」(韓伝)

魏志:國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡

後漢書國出鐵,濊、倭、馬韓并从市之。凡諸貿易,皆以鐵為貨

⇒「二郡」は「楽浪郡」と「帯方郡」。

「陳書依拠説(「後漢書魏志によっている」(石原博道氏)との見方を、こう呼ぶことにします)」に立つと、范曄がこの「又以供給二郡」を削除したことになるのでしょう。

しかし、そうなると以下の疑問点が出ます。

●「帯方郡は204年~」と言われていて後漢

→ただし、後漢書東夷伝において「基本的に霊帝の頃までの記述」になっていて、それには合致していると言えます。

また、東夷伝だけでなく、「後漢書全体でも、帯方郡という文言が使用されていない」という事実が有ります。

結局、「陳書依拠説」に基づいて、范曄が削除したとすると、削除の理由はどうなるのか???

 

③「丸都」(高句麗伝)

魏志:北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戶三萬。多大山深谷

後漢書:北與夫餘接。地方二千里,多大山深谷

⇒「丸都」は、例えば「丸都城」の記事によると以下になっています。

<遼東太守公孫氏に圧迫された高句麗は、209年に鴨緑江北岸の山中に丸都城を築造した>

➡「丸都」も後漢代の状況のようですが、范曄が削除したのでしょうか???

 

④「黄初」(挹婁伝)

魏志其弓長四尺,力如弩,矢用楛,長尺八寸,青石爲鏃,古之肅慎氏之國也。善射,射人皆入(因)。矢施毒,人中皆死。出赤玉,好貂,今所謂挹婁貂是也。自漢已來,臣屬夫餘,夫餘責其租賦重,以黃初中叛之。夫餘數伐之其人衆雖少,所在山險,鄰國人畏其弓矢,卒不能服也。其國便乘船寇盜,鄰國患之。

後漢書自漢兴以後,臣屬夫餘。種眾雖少,而多勇力,處山险,又善射,发能入人目。弓長四尺,力如弩。矢用枯,長一尺八寸,青石為鏃,鏃皆施毒,中人即死。便乘船,好寇盗,邻國畏患,而卒不能服。

⇒「黄初」(220年 - 226年)は魏の最初の元号です。

范曄は「黄初中」の記述を目ざとく見つけだして、魏代だから削除したのでしょうか???

また、関連する文言も含めて「夫餘責其租賦重,以黃初中叛之。夫餘數伐之」として削除しています。

更に、その前後の文章も配置などが相当変わっていることになります(例えば「弓長四尺,力如弩。矢用枯,長一尺八寸,青石為鏃」は位置が両書で違う)

「陳書依拠説」ではどのような説明になるか。

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以上4つを紹介しましたが、他にも「魏志後漢書で同じ対象についての文言が異なる」という箇所もあります。

⑤韓伝冒頭(番号は上記の続き)

魏志:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓

後漢書一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰

⇒三番目が「弁韓と弁辰」で異なります。

弁辰の方が古い表記のようで、「両書で違う方が辻褄が合っている」とも言えそうなのですが、陳書依拠説だと「范曄が、後漢代と魏代の三韓呼称に関して、詳細に時代考証して弁辰に変更した」ということになるのでしょうか???

また、東夷伝ではないですが、以下も有ります。

⑥烏丸(烏桓)伝

魏志:烏丸

後漢書烏桓

⇒『漢書』が殆ど「烏桓」になっているので、「烏桓」の方が古い呼称と思われますが、これも范曄が時代を合わせて修整した???

 

➡このように見て行くと、改めて”「陳書依拠説」は成り立つのでしょうか???”という根本的な疑問が湧かざるを得ません