邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B019)卑弥呼没年と天皇没年の時系列検討

魏志日本書紀の時系列に、下図のマイルストーン①~④を設定できることに着目しました。

◆上図マイルストーン説明(◎〇△は確実性の目安を示す)

卑弥呼没「正始中(240~249年)」⇒期間中の248年に張政らが来倭し、「卑弥呼以死」の記述があることから「248年」と仮設定

➡ ◎魏志倭人伝梁書の記述から「正始中」は確実と想定できる

倭迹々日百襲姫命没=崇神天皇10年」

➡ 日本書紀崇神条記述(記述は事実だが史実かどうかは不明で〇とする)

③第二十代安康天皇「456年」

➡◎日本書紀武寧王墓誌から「雄略天皇5年=461年」は確実で、そこからの計算で安康天皇没「456年」になる

崇神天皇「318年」

 ➡△古事記に没年干支の記載有るが、それが信頼できるかは異論も有る。

また信頼する場合も「256年」と「318年」の両説があるため△にした(個人的には「318年」と想定)

 

なお、③は例えば「倉西裕子」氏の論理的検討があり確実性が有ります。

参考に天皇在位表も添付します

 

このようにマイルストーン①~④が設定できたので、天皇代数との関係を計算して検討してみます(魏志の女王と男王も天皇相当として代数に含める)

その際に、まず①~④の中でも更に確実性が高い「①と③の間が約210年」になり、その期間に含まれる人物は以下のように想定できます

(ⅰ)男王(卑弥呼の後に短期擁立)と台与

(ⅱ)台与の後に立った可能性がある女王や男王(存在するかどうかも不明で仮定のみ)

(ⅲ)第10代崇神~第20代安康の各天皇

卑弥呼の後の代から考えているので、この210年間に卑弥呼は入らず、卑弥呼の治世が長くても影響しない)

 

安本美典氏の「天皇平均在位約10年説」に基づき代数を計算してみます。

まず「約210年間では 210/10=21代」と仮定します。

これに対して(ⅰ)~(ⅲ)に含まれる代数は以下になります。

(ⅰ)2代

(ⅱ)代数不明

(ⅲ)11代

 

➡判明している分では「(ⅰ) +(ⅲ)=13代」になるので、21代に対しては代数が不足しています!

強引に合わせようとすると「210年間/13代≒平均在位約16年」となり、10年説よりずっと長くなります。

逆に、これを(強引に)合わせられる想定としては以下のAかBが考えられます

A:(ⅱ)の魏志や書紀に記載が無い天皇相当の存在

B:(ⅲ)で書紀に記載が無い隠れた天皇相当がいて実際は11代より多い可能性(神功皇后を入れると12代になりますが、それでも足りない)

(AとBの両方である可能性も有りうる)

しかし、在位平均約10年説も、安本氏などのデータに基づく下図のような検討が有り、大きく外れることは考えにくくなります。

それが16年にもなることは、有り得ないと言っても過言では無いでしょう。

邪馬台国の会 第374回活動記録  」より

 

➡結果的に今は結論までは出せませんが、

少なくとも「確実な約210年間が設定できて、その中に入る代数が、魏志と書紀の記述分だけでは圧倒的に不足」という事実が見えて来ました。

 

なお、以上の考え方では「魏志倭人伝日本書紀」の時系列を「絶対年代で関連付けることが出来た」と個人的に考えています(絶対年代で①魏志と③書紀の間の期間設定が出来た)。

一見当たり前のようでもありますが、実際に両書の時系列をこのように関連付けた論考は寡聞にして知らないので、面白いのではないかと思っています(先行者はおられるかも知れませんが)。

今後更に④を含めた検討などを拡げられる可能性もありそうです。

 

一方で、「倭迹々日百襲姫命卑弥呼を前提にしているので、これに対する反論は出てくると想定します。(上記の安本氏はこれを否定する急先鋒)

しかし、「笠井新也」氏の論考を始めとして、「倭迹々日百襲姫命卑弥呼」の想定は妥当であり、反論は今や無理筋と考えます。

加えて、笠井氏以降も「円筒埴輪編年(川西宏幸氏)」などの考古学上の成果も色々出て来ていて、箸墓古墳卑弥呼墓は動かせない事実になって来ていると思います。

それにより上記①と②の「卑弥呼倭迹々日百襲姫命」の想定も確実性が増しています。

以上