邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B023)小澤一雅氏による「崇神崩年」検討について1

小澤氏は崇神崩年に関して「258年説と318年説」の両方に疑義を示されています。

◆小澤一雅氏の論文・著書(他にも有り)

a."古事記崩年干支についての疑念"  2009年11月28日シンポジウム

b. ”崇神天皇の崩年はいつ頃か-崩年モデルによる数理的検討-

c."古事記崩年干支に関する数理的検討" 2010/7/3 情報処理学会研究報告

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卑弥呼は前方後円墳に葬られたか―邪馬台国の数理 2009/10/1

 

以下は今後の検証の参考用として、小澤氏による両説に対する問題指摘の引用です。

(今後同氏の見解について検証して行く予定です)

◆258年説 ー笠井新也氏の説ー
近年、箸墓古墳卑弥呼の墓だという、笠井新也氏が大正時代に唱えた畿内が一部で再評価されている 。笠井氏は、魏志倭人伝の文献学的検討、および大和地方の遺跡に関する考古学的知見を総合 して 、畿内説をみちびいた。畿内説となれば、卑弥呼の墓は当然奈良につくられたことになる。笠井氏は、箸墓古墳こそそれだと主張したのである。
魏志倭人伝には、卑弥呼が死んだあと 「大いに家(つか)を作る径百余歩拘葬する者奴婢百余人」とある。箸墓古墳の後円部の直径は、筆者の計測によれば 161 mである。 1歩を適当なメートルに設定すれば、笠井氏が主張するように、「径百余歩」という記述と大きな矛盾はきたさない。ただし、倭人伝の「径百余歩」という描写からごくすなおにイメージされる墳墓の形状は、あきらかに円形であって、「前方後円形」ではないことは、笠井説の難点の 1つであろう 。

1歩の長さを適当に解釈すれば、後円部だけをみて「径百余歩」になる前方後円墳は、箸墓以外にも奈良にはたくさんある。これらの中から箸墓古墳一基にしぼりこむには、さらにもうひとつの論拠が必要になる。
私見だが、この「もうひとつの論拠」こそ、じつは笠井説の真の核心であり、着想のそもそもの原点ではないかと推測している 。笠井氏は、崇神天皇崩年・戊寅年= 258年とた。卑弥呼が没したのは 248年頃である。崇神天皇 258年に没したとすれば、卑弥呼の死は、まさに崇神天皇の在位中か、即位直前の出来事になる。
崇神紀が伝える、神がかりで大規模な箸墓築造の物語は、まさに卑弥呼の墓の築造にふ
さわしい。笠井氏はそう考えて、卑弥呼=倭遮迩日百襲姫という等式を着想した。わたしはそう推測している。卑弥呼が「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」 と貌志倭人伝が伝えていることと、 崇神紀にある倭j主連日百襲姫の呪的な伝承との対比などについて、氏はいろいろ言を重ねている。が、笠井説の根元は、なんといっても崇神天皇古事記崩年干支・戊寅年を 258年と解釈した一点につきるとおもう 。年代という数値が、 笠井説の成立に決定的な役割をはたしているのは、まずまちがいない。
それでは、この年代観は妥当といえるであろうか。検証をおこなうことにしよう。
検証の方法であるが、 258年は古事記にある崩年干支を根拠としている点を重視した方法でなければならないだろう 。つまり 、古事記崩年干支という世界の中で、戊寅年 = 258年という仮説の妥当性を検証するのである。すなわち、表 1成務天皇崩年 355を基準とした検証をおこなう 。

いま、ここに問題がある。成務天皇の実在性である。井上光貞氏は、成務天皇の実在を
みとめていない。ただし、井上氏の見解は、成務天皇を別系統の人物におき替えるとい
うことであって、皇統からただ削除するという、単純消去法ではない。 したがって、その代替者の没年を想定して検証すればよいことになり 、これから行う検証の有効性にまったく影響しない。

そこで、成務天皇崩年 355年を定点としよう。記紀が伝える皇統は、崇神、垂仁、景
行、成務の順である。古事記は、表 1にあるように、垂仁天皇景行天皇の崩年干支を記載していないが、崇神天皇の崩年がわかれば、垂仁・景行・成務三天皇の三代にわたる在位年数は計算できることになる。
笠井氏は、崇神天皇の崩年を 258年としたわけだ。そうすると、
355年 一 258年 = 97
であるから、垂仁・景行 ・成務三天皇の三代在位年数は 97年というこ と
ここで検証しようとしているのは、この 97年が妥当な数値なのか、あるいはそうでな
いのか、という一点である。検証の手順を説明 しよう 。 まず、記紀の崩年が信用できる古天皇允恭天皇)から昭和天皇にいたるまでの、すべての天皇の崩年(厳密には退位年)を基礎データ とし、連続三代の在位年数をくまなく算出する。その結果をグラフ化すれば、天皇の三代在位年数の実態が歴然とする。図 1がそれである。

この棒グラフの見方であるが、たとえば、明治・大正 ・昭和の連続三代を例にとると、この三代の在位年数 12 2年を昭和天皇 124 が代表する年数として「棒」 の高さを決めている。 1代くり上げた、孝明 ・・ 大正の三代の在位年数 79年は、大正天 123代 目)が代表する年数とするのである。もっとも古代には、雄略天皇 21が代表する 、允恭 ・安康 ・雄略三代の在位年数 42年が、最左端の j の高さになっている。
このグラフをみれば、問題は一 目瞭然であろう 。たしかに、室町時代末期~安土桃山時代、および江戸時代末期以降には、三代在位年数が、 100年近い年数になる事例(明治 ・大正 ・昭和の三代は 10 0年を超える)もあるが、すくなくとも、醍醐天皇 60 前の古代にはまったくない。長くても、 40年前後だということは一見してわかる。そこで、笠井氏の年代観から導かれる、成務天皇13代)が代表する垂仁 ・景行 ・務三代の在位年数 97年はどうだろうか。答えは明白だ。あ りえない年数といわねばならないだろう。すなわち、笠井氏が採用した戊寅年= 258年という年代観は、図 1にしめされる三代在位年数集計結果から推してまず成立しえないことが判明する。(a54頁)

◆318年説
戊寅年= 318年説は、 三角縁神獣鏡の問箔鏡分有仮説にもとづく邪馬台国畿内説で有
名な小林行雄氏をはじめ、多くの考古学者や古代史家が長年にわたり採用してきた、いわば「定説」に近い西暦換算である。これについても、数理的な検討をくわえてみる。
まず、結論からいうと、古事記の編者は、本来崇神天皇の崩年を 318年よりはるか昔に想定していたはずである 。 これは、以下のように、古事記の文脈を数理的に点検することによって明らかになるのである。
古事記によれば、崇神天皇 168歳で崩御とある。 つづく垂仁天皇 153歳、景行
天皇 137歳、成務天皇 95歳である。一方、表 1から 、成務天皇古事記崩年は 3
55年である。天皇の系譜から、崇神天皇の曾孫である成務天皇が、95歳で崩御したと
すると、崇神天皇の崩年 318年には、すでに 58歳だった ことになる。
崇神天皇崩御してから成務天皇崩御するまでの期間は、表 1から計算すると 37
間である 。 この“わずかな”期間内に、それぞれ 153 137 95歳で崩御した垂仁、景行、成務の 3天皇が、つぎつぎ即位し在位したことになる。すくなくとも、垂仁天皇景行天皇は、 100歳を超えてから即位した計算になるだろう。

153歳といった長い寿齢は、いまでいえば装古操作だが、編纂時には「大むか しの天皇は長寿だった」という設定が異常とは認識されなかったからである。
しかし、すくな 2人の天皇が引き続いて 100歳を超えてから 即位するなどという 事態は、あきらかに異常である。
日本書紀では、初期の天皇にあっても 20歳前後で皇太子になり、 306 0歳ぐ らいで即位したと記述しているケースがふつうである。図 2に、日本書紀に記載されている古天皇の即位年齢と在位年数を表示し た年歴グラフ(棒の高さは天皇の寿齢になる)を掲げている。もちろん、 100歳を超えて即位するよう な年歴の組み立ては行われていない。
古代天皇の年歴(いつ即位し、何歳まで在位したか)は、古事記日本書紀ともに、編者がいわば「創作的に」組み立てているものとおもわれるので、古事記編者にしても、 2人の天皇 100歳を超えてから即位するというような“非常識”なシナ リオを想定して
いたとは、とうてい考えにくい。
153歳というような長い寿齢を設定している理由は、長い在位年数を確保したいという編者の構想のあらわれであって、決して即位年齢を異常なまでに高齢にしようと意図し
たものではないはずである 。 100歳を超えるような高齢で即位し、ご く短期間しか在位しなかった、というようなシナリオを編者は描かないだろう 。
こうした矛盾は、そもそも、戊寅年= 318年とする換算から発生するわけであ って 、
古事記年代記述が不完全であるため、 一見、数値的に歴然とした矛盾にはみえないが、編者の本来の認識とはあきらかにちがっているはずである。 もし、垂仁天皇景行天皇2人が、日本書紀が描いている古代天皇たちの年歴の「シナ リオ」(図 2)から類推して、5 0歳程度で即位したとしてみれば、戊寅年を 318年よりも、すくなくとも 120年 、あるいは 180年くり上げて換算しなければならない計算になる。
つまり、もし、古事記年代記述が完全ならば(編者の構想が明確に記述されているな
らば)、おそらく崇神天皇崩年は 2世紀中の戊寅年になったはずである。

戊寅年= 318説は、このように古事記の文脈上、重大な矛盾をはらんでいることがわかる。
1におけ る、末松換算によって与えられた崇神天皇以下数代の天皇古事記崩年(西
暦年)についても、文脈を無視して、崩年干支だけをピンポイントでとりあげ、近年の年代観にあうように西暦年をあてはめただけの産物とみなさざるをえない。古事記編者の意図とは、あきらかにちがっているはずだ。 これは、日本書紀崇神天皇崩年干支 ・辛卯年に対して 、文脈を無視して、たとえば 4世紀中の 331年にあてることとまったくおなじ(a54頁)

以上