邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B025)笠井新也氏論考 「卑弥呼の冢墓と箸墓」2

前記事(025)で、笠井新也氏による「箸墓=卑弥呼墓」の論証を紹介しました。

それ以外にも、箸墓古墳の大きさや形状などからも、論理的に検証されているので、参考に引用します。

(当方コメントは引用終了の後に添付)

-----引用開始-----

卑弥呼の冢墓と箸墓 笠井新也」より(抜粋)

卑弥呼の冢墓としての箸墓

卑弥呼即ち百襲姫命であるとすれば、現に百襲姫命の御墓として伝へられ、同命の確実な御遺跡として、宮内省の管理に属する大市墓、即ちいはゆる箸墓古墳は正に魂志にいはゆる卑弥呼の冢墓でなければならない。然らば現存するこの箸墓古墳の規模は、果して魏志の記載によく合致するか如何。これが最後に残された間題である。

余輩は既に前段に於いて、卑弥呼の冢墓と箸墓との関係に就いて述べたのであるが、それは専ら文献によって、魏志と書紀との記載を対比して、その状況のよく合致する所以を論じたのであって、その実際的遺跡の事実に就いては、故らにこれに触れることを避けたのであった。それは文献論と遣跡論とを混淆する時は、論旨の徹底を欠く恐があるのみならず、有体にいへば、遣跡論は将来の発掘発見等によって、その論旨に多少の変更を要することが無いに限らないので、万一そのやうな場合にも、累を文献論に及ばしめない用意を必要としたからである。而も今や最後に、この遺跡の実際に就いて論及しなければならないのである。

箸墓古墳は、大和国磯城郡織田村字箸中にあゑ崇神・景行等の大陵墓の散列する丘陵地帯を近く後方(東)に控へ、前面(西)遠く大和平野を見はるかす位置にあって、平地(田圃地)に横たはる一大方円式古墳である。その規模に就いては、諸書に記す所が区々であるが、今最も信ずべき資料によれば、左の如くである。

 「箸墓古墳

 全 長  二三〇(米)

 前方幅 一〇〇(米)   

 前方高 一六(米)    

 後円径 一五〇(米) 

 後円高 三〇(米) 

 尚陸地測量部二万分図によって、図上測定を試みても、全く同一の結果を得る (但し高さは図上測定が出来ないから此の限りでない)。 墳丘の北側に接して大きな池があるのは、 或は環隍の一部が遺存したのではないかと思はれる。若しさうであるとすれば、兆域は元来非常に広大なものであったであらう。御墓は今宮内省の管理に属し、周囲には厳重な外墻が繞らされてゐるので、兆域に立入って、之を考古学的に観察することが許されないのは遺憾であるが、古老の談によると、明治初年の頃までは、墳丘を横断する細径があって、里人は自由に通行してゐたとの事である。よってその見聞について聞くに、 「御墓の円丘部は完存してゐて、 その頂上にも発掘の痕跡等は無かったが、方丘部の前方は相当に荒れてゐたやうである。現在方丘部があのやうに整った形になってゐるのは、共の後宮内省に於いて、土を盛り上げて修理をされたからである。クビレ部に造り出しのやうなものは無かったと思ふ。葺石といふのか、墳丘の所々に白色を帯びた径五六寸の石が多数に散布してゐるのを見受けた云々との事である。所謂素人の報告ではあるが、また以って参考とすべきである。特に、御墓の表面に、径五六寸の石が多数に散布してゐるといふことは、所謂葺石の存在を物語るものであって、彼の手を以って逓伝したといふ石材は、正しくこれであらうと思はれて、面白い事実である。

さて此の箸墓古損を以て、卑弥呼の冢墓に比定するには、まづ順序として、それが百襲姫命の御墓として確実なものであるかどうかを、 一応検討しておく必要がある。由来我が国古代の陵墓が、中世以降荒廃に帰して、 一時その所伝を失ったことは周知の事実である。近世に至って、陵墓の考証と探求の事業とが起り、明治の聖代に及んで、歴代の帝陵・御墓が、殆どすべて御治定を見るに至ったけれども、その御治定に対しては、学者間に尚疑議を存するものが少くないのは、また止むを得ないことであらう。併しこの箸墓古墳の如きは、その伝承の最も古いものがあって、歴代の御陵墓中、その証徴の最も確実なものゝ一つであることは、蓋し学者の認める所であらう。

書紀の天武天皇元年の条に、所謂壬申ノ乱の際、両軍がこの箸墓で戦ったことが記されてゐる。而してその記述に、

 「是日、三輸君高市麻呂・置始連菟、当上道戦箸陵、大破近江軍乗勝兼断鯨軍之後。鯨軍悉解走」

とある。こゝにいふ所の箸陵が百襲姫命の御墓であることは言ふまでもなからう。而して「上ノ道」とあるのは、三輪の附近から北上して、奈良に至る街道で、現在箸墓古墳のある織田村字箸中は、ちゃうど此の道筋に当ってゐる。今日でも此街道は、箸墓古墳の円丘部の直下、恐らくはその封土の縁辺を侵したかと思はれる程に、墳丘に密接して通じてゐる。されば謂ふ所の「箸陵」が、今日の箸墓古墳の位置に一致することは疑ひない。

また今昔物語集大和国箸墓本縁語」にも、彼の崇神紀に見えてゐるのと同趣の三輪山式説話を叙した後、

「然テ其墓ヲバ大和国城下ノ郡ニシタリ。箸墓トテ今ニ有ルソレ也トナム語リ伝エタル。」と記してある。されば此の御墓の所在は、上代以来、確実に世人に伝承されて来たものと考へられる。而して墓の所在地である箸中という字名も、ハシハカの約音であることは勿論なので、この箸中に現存する箸墓古墳が、百襲姫命の御墓であることは、愈々確実であるといって可ろう。

さて然らば、この箸墓古墳卑弥呼の冢墓して承認することが出来るであろうか。魏志には、卑弥呼の冢墓を「径百余歩」と記してある。一歩は支那尺で六尺であるが、魏代の一尺は、わが現行の約七寸九部に当たるから、魏志にいふ所の一歩は、我が約四尺七寸四分に当る。今この規準によって、箸墓古墳の円丘の直径一五〇米を歩数に換算すると、ちゃうど百四歩半となる。即ち魏志の「百余歩」に対して、あまりにもよく合致するのに驚かれる。

支那尺度の考定は甚だ困難な問題であるが、近時支那建築史を専攻される竹島卓一氏が算出された所によると、魏代の一尺は我が現行尺の七寸八分九厘六毛に当るという(建築史二ノ一「支那古代の尺度に関する考察)。この毛位を四捨五入すれば七寸九分となる。即ち前述魏志の歩数の算出に用ひた標準は、これに拠ったものである。

されば箸墓古墳の規模は、完全に魏志の記載に一致するものであって、既に文献上の合致ある上に、今またこの遣跡の一致を見るのである。卑弥呼の冢墓即ち百襲姫命の墳墓であることは、愈々妥当性を加へるものと言へよう。

五 墳形の問題

こゝに一言弁じておかなければならない事は、「卑弥呼の冢墓は円墳である」といふ説のあることである。故喜田真吉博士の如きも、夙に「漢籍に見えたる倭人記事の解釈」(歴史地理三〇ノ六)中に於いて、

 「卑弥呼の墓、共の径をいふを以って見れば、恐らくは円塚なりしならむか。」

といはれてゐる。その他にも、 一二同趣の意見を述べた学者もあったと記億するが、併しこの見解を最も強く主張されたのは、蓋し橋本増吉博士であらう。 博士はその論文「耶馬臺国の位置に就て」 (史学ニノ四)中に於いて、卑弥呼の冢墓が円墳であるべきことを述べられて、

魏志倭人伝の記す所を見るに、卑弥呼以死、大作冢、径百余歩とあるのであるが、この径百余歩の文句を如何に解すべきであろうか。予はその円形の家を意味せしものであることを認めざるを得ないのである。蓋し支那に於て、径なる文字は常に円形の大さを示す場合に於てのみ使用せらるゝ所であり、断じて前方後円といふが如き特殊の型式を表示する場合に於て、使用さるべきではあるまいと信ずるからである。」

といはれてゐる。若しこれらの主張が正しいものであるとすれば、箸墓古墳を以って卑弥呼の冢墓に比定する余輩の議論は、根柢から崩れる訳であるので、余輩としては、聊か弁じなければならないのである。

橋本博士等の主張は、要するに、「径」とあるから円墳であるといふのである。併しこの主張には、大きな無理があると思ふ。「径なる文字は常に円形の大さを示す場合に於てのみ使用せらるゝ」といふのは先づ可いとしても、(これにも異議はあるが姑く差し控える)、それだからといって、径とあるから円墳であるとは、如何して云へるのだらうか。例へば、「径八寸の鏡」とある場合「これは径とあるから円鏡である、断じて柄鏡ではあり得ない」といへるだらうか。「径一尺の団扇」とある場合、「これは径とあるから、柄のない団扇でなければならぬ」といったら如何であらうか。方円式古墳の前方部は、勿論鏡や団扇の柄部とは、その形態・意義に於て相違するけれども、その主要部に対する附属的施設であることに於いては同一である。方円式古墳に於いて、円丘部はその主体であって、その面積に於いても、体積に於いても、その前方部に比して遙かに高大である。尤も後期に於ける変態的形式のものには、その前方部が、その円丘部に匹敵するが如きものも無いではないが、これらは勿論論外とすべきものである。現に当面の問題である箸墓古墳の場合に於いても、その円丘部の体積が、前方部のそれに比して、遙かに偉大であることは、前掲の測定表を一覧すれば明らかである。されば円丘部は所謂内部単に素人の外形的観察にのみよっても、その目だって高大な円丘部が、その墳墓の主体であることは、直覚的に感得出来る筈である。されば魏志(或は魏略)の記載の如きも、その主体たる円丘部に就いて記したものと解すれば、仮令そこに径といふ文字が使用されてあっても、それが為に、卑弥呼の冢が方円式であることを否定する理由とはならないのである。

一体墳墓の形式をやかましくいふのは、考古学者の事であって、考古学者ならぬ者に取っては、それが円式であらうと、方式であらうと、乃至は方円式であらうと、何等関心すべき問題とはならないのである。我が記録・風土記以下の国史・雑史の類を仔細に検閲しても、古代墳墓に関する記事は少くないが、而も方円式古墳の形態を彷彿するが如き記載は皆無であることを見ても、思半に過ぎるものがあらう。されば彼の魏代の史家に、卑弥呼の冢墓に関する資料を提供した者が、倭人であったにせよ、韓人であったにせよ、或はまた魏人であったにせよ、その報告者その者が既にその形式に就いて関心をもってゐたかどうかは疑問であり、仮令関心をもってゐたとしても、それを忠実に伝へたか否かは更に疑間である。況やそれを更に伝聞して記載した魏志或は魏略等の編者が、卑弥呼の冢墓の形式に就いて、明瞭な知識を持ってゐにか否やは、愈々疑問である。方円式といふが如き、我が国特殊の墳形に就いては、外国人である彼等、而して考古学者ならぬ彼等に取っては、寧ろ夢想さへしなかった所であるといふのが真相ではあるまいか。この頼りない筆者の片言隻句によって、我が卑弥呼の冢墓の形式を論定しようとするが如きは、蓋し徒労に過ぎないであらう。

我が上代に於いて、歴代の帝陵・御墓を始めとして、各地の豪族が盛んにこの種の方円式大墳墓を築いたことは、正に顕著な事実である。而もこの事実は、近世以後の学者の実地踏査の結果によって明らかにされたのであって、決して古代の史籍によって知り得た事実ではないのである。我が古代の史籍が、此の種の墳形に就いて、全く無関心であったことは、既に記した通りである。彼の延喜式の諸陵寮の条に記された歴代陵墓の記録の如きは、上代墳墓の記録として、比較的詳細なものであるが、而もその墳形を捕捉することが 物出来さうな語句は終に見出すことを得ないのである。試みに我が国最大のである応神・仁 両帝陵に就いての記載を見るに、

 「恵我藻伏崗陵 軽島明宮御宇応神天皇、在河内国志紀郡、兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」

 「百舌耳原中陵 難波高津宮御宇仁徳天皇、在和泉国大島郡、兆域東西八町、南北八町、陵戸五烟」

とあるに過ぎない。若し此の記録によって「これらの陵墓は、何れもその兆域が、東西南北同距離であるから、その墳形は方式又は円式であって、断じて方円式ではあり得ない」などと論ずる者があったら如何であらう。

また我が国最古の辞典として、学者の常に典拠とする、和名類聚鈔の山陵の条を見るに、

 「山陵(埴輪附) 日本紀私記云、山陵(美佐々岐)埴輪(波邇和)山稜縁辺作埴人形、立如車輪者也」

とある。 若し此の記載によって、 「埴輪は山陵の縁辺を車輪の如く円形に周匝するものであるから、埴輸を有する墳墓はすべて其の縁辺が円形でなければならぬ。車輪の語ある以上、方円式ではあり得ない」といふ論者があったとしたら如何であらうか。彼の径なる一語によって、卑弥呼の冢墓を円墳であるとする議論の如きも、或は此の類ではなからうか。

最後に、当面の問題である箸墓に関する興味ある一文献を引く。河村秀根の書紀集解にいふ。

 「嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有ニ円形之丘。相伝曰箸墓。無長樹、荊楚成林耳」

と。考古学者ならぬ者の悲しさ、あの明瞭な方円式大古墳も、秀根の眼には、単に「円形之丘」としか映らなかったのである。若しこの語句を引いて、箸墓古墳の墳形を論ずる者があったとしたら、それこそ大変な間違となるであらう。併しながら秀根をして云はしめれば、 「成程あれが前方後円式といふものかい。 何しろそんな事は六国史にも二十四史にも書いてない事だから、俺は知らなかったよ。俺はたゞ山の主要部分が円形であったから、さう書いただけさ、俺たちの文章は簡潔を尊ぶのだから、どうせ考古学とやらの参考にはなるまいよ」といふであらう。而してこの語はまた移して陳寿・魚豢の弁とすることが出来るであらう。

要するに、考古学者ならぬ一般的学者の編纂に係る史籍等によって、古墳の形式を論定するが如きことは、非常な冒険であることをの覚悟しなければならない。されば仮令魏志の文面に、卑弥呼の冢墓弥 がいかにも円墳であるかの如く記されてゐるとしても、それによって直に其の実際の遺跡の形式を決定するが如きことは、躊躇を要するのである。況や魏志の記載は必ずしも円墳を意味せず、他に合理的な解釈があるに於いてをやである。即ち此の場合、たとひ径なる文字が用ひられてあっても、而してまた径なる文字が必ず円形の大きさを示す場合にのみ用ひられるものであるとしても、それは墳墓の主体である円丘部の大きさを示したものと見れば、その墳墓が方円式であっても、何等差支はないのである。されば現存する箸墓古墳を以って、卑弥呼の冢墓に比定する余輩の主張は、この種の議論によっては、何等の拘東をも受けないものであることを、断言するに憚らないのである。

----引用終了-----

 

➡非常に綿密な論考で、特に個人的に感銘を受けたのは「川村秀根」という江戸時代の人物の著述まで調べ上げていたこと。

河村秀根 - Wikipedia

<江戸時代中期の尾張藩士、国学者

→「前方後円墳」という言葉が広まる前の識者の見解例として貴重と思われ、「円墳に見立てる方が普通だったのではないか」と思わせます。

また実際の形状でも、横から見ることになり円形部の方が高く、目立つことは間違いないと思います。

しかも、完成当初は樹木も無く、測量図のような形がハッキリ見えていたわけで、

現状の樹木が繁茂した様子よりは遥かに「円」と感じる度合いは強かったと推察。

また、地元の「古老」の話まで収集されていたのも参考になりました。

 

なお、笠井氏は大きさに関しても、上記の様に数字を挙げて検証しています。

一方で小澤氏が「 歩の長さを適当に解釈すれば、後円部だけをみて『径百余歩になる前方後円墳は、箸墓以外にも奈良には沢山ある」とされているのは、数字の扱いに強い理系の方とは思えない「暴論」と言っても過言ではないとさえ個人的に思えています。

人体の動きから出て来る「歩」であり、体格もアジア人同士で大きく変わるはずはありません(その点で古田武彦氏の「短歩」も論外と言えます)

結果的には(全くの当方憶測では有りますが)小澤氏は、ご自身が発見されたという下図の「崩年推定式と推定曲線」を優先させて、それに対して築造年代面から合わなくなる「箸墓=卑弥呼墓」を否定されている? 

⇒ こうでも考えないと、「1歩の長さを適当に解釈すれば」とまで仰るのは、到底有り得ない話と個人的に感じています。

以上