邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B026)笠井新也氏論考 「卑弥呼の冢墓と箸墓」3(殉葬)

笠井氏は「殉葬」に関しても詳細な論考を行っていて、引用します。

同氏の趣旨は「『婢百余人』 の一句は、彼の『径百余歩』の一句と共に、我が国史に欠けた数量的記載が、偶々、彼の国史に伝へられたものと考へられるのである」ということで、魏志倭人伝の殉葬に関する記述は信憑性があると見る立場。

しかし、改めて同氏の殉葬に対する記述を見て、当方は以下の考えを持ちました

箸墓古墳の築造当時に大規模な殉葬の風習が有ったかどうかは別にして、「日本書紀の重要な基本スタンスは魏志倭人伝の記述をフォローする」ことであり、書紀の殉葬の記述もその意図に沿ったものではないか。

➡つまり、書紀編者らは、「殉葬は良くないこと、或いは恥と考えた」と想定すると、一方で倭人伝に記述されてしまったものは訂正が効きません。

また、箸墓築造より古い時代の風習が、魏の人に誤って伝わったことも考えられるでしょう。

それで垂仁天皇条において、「埴輪に変えた」という記述を行ったのではないか。

勿論、真偽の判定はしようがないですが、笠井氏見解のように箸墓古墳での殉葬を認めてしまうのではなく、殉葬が行われていなくても、垂仁天皇条のような記述になり得る論理的考察として、個人的に持ち続けようかと思います。

(今回の当方コメントは以上で書いたのでは引用終了の後は無しです)

-----引用開始-----

卑弥呼の冢墓と箸墓 笠井新也」より(抜粋)

三 殉葬の問題

魏志にはまた、前項卑弥呼の冢墓に関する記載を受けて、

 「徇葬者奴婢百余人」

とある。我が国史には、直接これに対比すべき記載を欠いてゐるが、併し当時、即ち崇神朝の前後は、我が国に於ける殉死の風習の最も盛んな時代であって、高貴の方々の葬時に於いて、多数の臣属奴婢が殉死陪葬されたであらうことは、我が国史にその証跡の歴々たるものがあるのである。されば百襲姫命の場合に於いても、また多数の殉葬者があったであらうことは、推定に難くないのである。

垂仁紀には、皇弟倭彦命(垂仁天皇皇子)の薨去に際して、多数の近習が陪葬されたことを叙して、左の如く記してある。

廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彦命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、詔群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」

と。こゝに「近習ノ者ヲ集へテ悉ク」とあるによれば、その殉葬者の人数の少くはなかった事が察せられる。而してまた「其ノ古ノ風ト雖モ」とあるによれば、その因習の由来の極めて古いことが察せられる。

次いで同紀、皇后日葉酸媛命薨去の件りには、野見宿禰の建議によって、埴輪を以って殉葬者に代へられたことが記されてゐる。すなはち、

 「三十二秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命也薨。臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲国之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」

と。蓋し、何事も余りに盛んになれば、そこに弊害を生じる。垂仁天皇が英断を以って、由来久しいこの風習を禁止されたのは、前朝以来、それが余りにも盛んになって、その弊害に堪へなかったものと考へられる。さればこの垂仁紀の一節は、それが殉葬の廃止を伝へる一資料であると同時に、 一面また、当時に於ける殉葬の風習の盛行を推定せしめる一証徴といふべきである。

尚、古事記崇神天皇の条には、前掲倭彦命に関する記載と関連する伝承を記して、

 「倭日子命、此の王の時に始めて陵に人垣を立てたりき」

とある。こゝに人垣を立てたといふのは、之を前引書紀の倭彦命薨去の件りの記載と対照して考へると、多数の殉葬者を垣の如く墓域に埋め立てたといふ意味に考へられる。 而して書紀に 「悉生而埋立於陵域」とあるによって考へると、 こゝに人垣といふのも、或は生きた人を意味するのかも知れない。かくの如きことが、当時実際に行はれたかどうかは疑問であり、かつ人垣といふが如きも、聊か誇張に過ぎた語であるやうにも思はれるが、ともかくも当時、そのやうに風説伝承された程にも、多数の殉葬者があったといふ事だけは、肯定出来るであらう。

我が上代に殉葬の風習のあったことは、既に学界の定説となってゐる所であって、何等問題とすべきではない。ただこれを生埋にするといふが如き残酷な事が、果して実際に行はれたかどうかは確かに疑問であって、今日、これを否定する学者の多いのも、無理ならぬ事である。併しながら、これに類似する風習が他の民族にもあったとすれば、必ずしもこれを否定するにも当らないであらう。晋書東夷伝夫余国の条を閲すると、

 「死者、以生人殉葬。有椁無棺」

とある。こゝに「生人ヲ以ッテ葬ニ殉ハシム」とあるのは、生きながら陪葬に附するの意味であって、正に生埋の事実を物語るものと見なければならない。同じ東夷の夫余国に於いて、此のやうな風習があったとすれば、我が上代に於いて、また同様の風習があっても、必ずしも怪しむを要しないであらう。

また垂仁紀には、殉葬者を「陵域ニ埋メ立テ云々」とあるが、この「埋メ立テ」といふのは、身体の上部を露出しておくといふ意味と思はれる。而してこれに類似した葬法もまた、他の民族に行はれてゐる。即ち魏書勿吉伝に、

 「共父母春夏死、立埋之冢上、作屋不令雨湿」

とある。死者と生者との異同はあるが、其の身体の上部を露出せしめる点は、正に同様である。「屋ヲ作ル」とはあるが、「雨湿セシメズ」の程度であれば、屍体は腐爛して異臭を放ち、書紀にいはゆる「犬烏聚リ噉フ焉」の状況もあり得たことであらう。また魏書高車伝にも、これに類似した葬法が記されてゐるが、今は繁を避けて省略に従ふ。

要するに、これら東洋の諸民族に於ける上代の風習を参酌して、我が記紀の殉葬に関する記載を見る時は、それが仮令現代の吾人の常識を以ってしては、余りに残酷であり、奇怪であるとしても、たゞそれだけの理由を以って、 一概にこれを否定し去るが如きは、蓋し妥当の見解とすることは出来ないであらう。

尚こゝに一言を要することは、前記古事記にいはゆる「人垣」に対する一部学者の新見解である。故高橋健自博士の如きも、

「こゝに人垣を立てたといふのは、埴輪土偶を立て列べた事を、そのやうに言伝へたものであらう。」と説かれてゐる(大日本百科事典並びに考古学口座「埴輪」)。併しこの説は、 一種の聯想から出発した億説であって、それ以外特に根拠のある見解ではない。かつ考古学上の事実からいっても、古墳の周囲から埴輪円筒を出す場合は多いが、 一基の墳墓から、土偶がそのやうに多数に発見された例は皆無といって可い。

埴輪土偶を比絞的多く出すといはれる関東地方に於いてさえ、これが所謂人垣を作った状態で発見された例は、未だ聞かない所である。されば仮りに倭彦命の時に、既に埴輪が行はれてるたとしても、当時、それ程にも多数の土偶が埋立されたものとは考へ難い。又一説に、「陵に人垣を立てたといふのは、送葬の際、御遺体を守護する行列の人垣を、そのまゝ陵上に立たしめたといふ意味である。」とする説もある (理学博士山口鋭之助氏「陵と神道」(歴史地理)四十六ノ五)。この説は殉死否定の観念から出発して、神宮儀式帳の「人垣」の用例を強ひてこゝに当てはめようとした説であって、従ひ難い。畢竟古事記にいふ所の人垣云々の一句は、寧ろ旧説に従って、殉葬関係の記載と見るべきで、仮令これを文句通りに受容れることは困難であっても、とにかく、当時多数の殉葬者があった事を反映する一資料と見ることは出来よう。

尚殉死と埴輪との関係等に就いても、学者間に種々の議論があり、余輩にもまた多少の意見はあるが、本篇の論旨とは直接関係しないので、之を他日に譲ることゝする。

降って孝徳紀の大化新政の詔勅の条には、更に殉死を禁ぜられる旨が述べられて、左の如く記されてゐる。

 「几人死亡之時、若経自殉、或絞人殉、及強殉亡人之馬、或為亡人蔵宝於墓、或為亡人断髪刺股而誄、如此旧俗、 一皆悉断」

と。これによって見れば、既に垂仁天皇の朝に禁止された筈のこの風習が、また何時しか継続され、其の後儒教の伝来あり、仏教の流布あり、大陸の文化と思想とは盛んに輸入されて、我が国民の思想にも、多大の影響を与へたであらうにも拘らず、実際には、尚この風習が盛んに行はれてゐた事が察せられるのである。以って我が上代に於ける此の習俗が、如何に根強いものであったかを想像すべきである。

思ふに殉死陪葬の習俗は、東亜民族共通の原始的思想に基づくものであって、その淵源は極めて古く、かっこれが我が国民性である減私奉公の思想に習合して、 一層根強いものとなったと考へられる。されば現代人が抱懷する人道とか人権とかいふが如き思想の萌芽をさへ見なかったであらう我が古代に於いて、この風習が寧ろ奨励され、纉美され、而してまた強制されたであらうことは、想像に難くないのである。而してその殉葬者の多少は、その主君の勢力に比例するものであって、それが自発的であるにしても、又は強制的であるにしても、強大な勢力を有し、多数の臣属奴婢を擁する者ほど、多数の殉葬者を出したであらう事は、蓋し当然であらう。而して開化朝より、崇神・垂仁両朝の頃に至って、我が国運は発展し、皇室の権威もまた大を加へるに至り、関係高貴の方々の崩御或は薨去に際しては、送葬の儀礼が重んぜられ、壮大な陵墓が築造されると共に、殉死陪葬される臣属奴婢の如きも、また愈々その数を増したであらうことは、自然の勢であったであらう。而して百襲姫命の薨去は、この風習の最も盛んに行はれてゐた崇神の朝にあったので、既に前稿に於いても述べた如く、 その威望はきはめて高く、 「日ハ人作リ、夜ハ神作ル」の大墳墓を営むに於いて、その殉葬者の多数であったゞらうことは、現代人たる吾人の想像以上のものがあったに相違ない。されば魏志にいふ所の「徇葬者奴婢百余人」の記載は、よくこの状況に一致するものであって、「奴婢百余人」 の一句は、彼の「径百余歩」の一句と共に、我が国史に欠けた数量的記載が、偶々、彼の国史に伝へられたものと考へられるのである。

----引用終了-----

以上