三木氏見解
<大乱の前後の国数が等しく三十国とあることは(范曄の)意識的作為という外に無い>
→この考えからヒントを得て、倭よりも多い国数の記述が有る「魏志韓伝」を見てみました。
<馬韓在西。・・・
有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、內卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國,
凡五十餘國>
→「馬韓」の国数を「凡五十餘國」としていますが、記載は55国です。
しかし、「莫盧國」が2回あるので、それを除くと54国。
一方で、後漢書韓伝も見てみます。
< 馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接,辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國>
→全体が書いてありますが、「馬韓」は54國です。
➡これだけ見ると、「魏志韓伝」も「後漢書韓伝」も馬韓の国数は「54国」で合致していて問題はないことになります。
しかし「参照関係」を考えると、通説の「後漢書は魏志に依拠」であると、范曄は馬韓の国数について以下の作業を行ったことになります。
②念のために記載国を詳細に見て「莫盧國」が2回あるのを発見する。
③結果的に魏志に記述の馬韓の国数は「54国」であることを知る。
➡なぜこれが必要かというと、後漢書韓伝の記載国数は以下(上記参照)であり、馬韓は54国でないと合わないからです。
(1)馬韓:54国
(2)辰韓:12国
(3)弁辰:12国
計:78国
➡馬韓は合致していますが、実はこれでOKとは行きません。
◆范曄が①~③のような細かい作業を本当にやったのか?
→疑問有りです。
もっと端的には、これも「魏志依拠」ではない証拠と思えます。
更にもっとややこしい話が有ります。
魏志には「弁辰と辰韓」を合わせた国々の名前の記載も有ります。
<(1)有已柢國、(2)不斯國、(3)弁辰彌離彌凍國、(4)弁辰接塗國、(5)勤耆國、(6)難彌離彌凍國、(7)弁辰古資彌凍國、(8)弁辰古淳是國、(9)冉奚國、(10)弁辰半路國、(11)弁樂奴國、(12)軍彌國、(13)弁軍彌國、(14)弁辰彌烏邪馬國、(15)如湛國、(16)弁辰甘路國、(17)戶路國、(18)州鮮國、(19)馬延國、(20)弁辰狗邪國、(21)弁辰走漕馬國、(22)弁辰安邪國、(23)馬延國、(24)弁辰瀆盧國、(25)斯盧國、(26)優由國。
弁、辰韓合二十四國,>
→「弁、辰韓合二十四國」としていますが、26国有ります。
結果的に陳書は、馬韓も辰韓・弁辰も国の記述に問題があります。
それに引き換え、後漢書は
「馬韓54国」+「辰韓12国」+「弁辰12国」=「計78国」
と明確です。
「魏志依拠説」への反証になる事実が又増えたように思います。
以上
[補足]
三木氏は「大乱前後の国数」を考察しているので、直接は「韓」には関係ありません。
しかし一般化して、「混乱や変動があった前後で国数が同じは考えにくい」は妥当性があると思います。
「三韓」では、例えば以下のように漢末に大きな混乱が有りました。
<桓、靈之末,韓濊強盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡・・・(その後公孫氏滅亡も発生)>
また、他に気になる点としては、本文に有るように魏志の国数の記述には、いい加減さが感じられます。
陳寿や協力者(或いは書写時)などに、注意力散漫だった可能性。
これが重要なのは、倭の「21国」にも影響するかも知れません(陳書の国の記述には間違いがあるかも知れないという前提で見る必要が出て来る)
補足以上