三木氏の基本的見解
→しかし、両書には「原史料」が有ったはずで、原史料の存在を想定すると、実際の参照関係はどうなっていたか?
それを考えるにあたって「共通的記述対象で名称が異なるもの」を考えてみます。
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◆魏志
韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。辰韓者,古之辰國也。馬韓在西。
◆後漢書
韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接,辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國,伯济是其一國焉。
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これは通説のように、范曄が陳書を見て、「帯方」郡は後漢代に合わないということで「楽浪」に修整したのでしょうか?
しかし、帯方郡の設置は204年とされていて、まだ後漢代です。
それなのに、何故范曄はあえて「楽浪」にしたか?
そこで考えられるのが「東観漢記」の影響で、東観漢記は「霊帝」までといわれています。
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例 1
<[註](15)第三に記述範囲。『東観漢記』の記述する範囲が後漢一代の史事をおおっていない点があげられる。『東観漢記』の本紀は光武帝から霊帝までしかなく献帝を欠く。これにともない、後漢末に活躍し本来立てられるべき人物の伝がない。『東観漢記』の録する後漢代の史事は献帝時代を欠き、後漢史の全き姿を語らなかった>
→ただし、「中国哲学書電子化計画」を見ると「孝獻帝紀」はあるので、池田氏の趣旨は把握し切れていません(例えば献帝紀は不完全とか?)。今後調査。
例2
<『東観漢記』は東漢の歴史を記載した重要な史書で、光武帝から霊帝までの記事を扱う。>
→「霊帝(168年 - 189年)」までの記述だと「帯方郡」は入りません。
范曄が『東観漢記』を参照したので「帯方郡」の記述が無いとすると辻褄が合いそうです。ちなみに、『後漢書』全体でも「帯方郡」は全く出て来ません。
これは三木氏の想定とは参照関係が逆になります。
他にも韓伝で「三木氏想定=後漢書は魏志に依存している=陳書依拠説」に反すると思われる記載が有ります。
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◆魏志
◆後漢書
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しかし、「弁韓」はこの一箇所のみで、魏志韓伝の他の部分では(弁韓でなく)「弁辰」になっています。
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◆魏志韓伝
弁辰、亦十二國。又有諸小別邑、各有渠帥。大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國、弁軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戶路國、州鮮國、馬延國、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國、馬延國、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。弁、辰韓、合二十四國。・・・
弁辰、與辰韓雜居。・・・
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➡これは推測すると、陳寿が見た「原史料」も全部が「弁辰」になっていたのを、最初の部分だけ、陳寿が魏代に合わせて「弁辰」より新しい呼称の「弁韓」に変えたのではないか。
更に広げると陳寿は、例えば「鉄鏃」の件でも、「魏代に合わせて”鉄鏃”を追加したが、”骨鏃”は残してしまったので、魏代には合わない記述になった」という経過が想定できます。
つまり、「陳寿は時代考証をする姿勢は有るが、配慮不足で結果的には杜撰になっている場合があるのではないか」というのが当方個人的推測です。
このようなことも「陳書依拠説」への反証になると考えています。
また、同一対象における名称の違いとは逆に、同じとは思えないのに名称が一致している記述が有ります。
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◆魏志
弁辰亦十二國,又有
諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,其次有險側,次有樊濊,次有殺奚,次有邑借。
◆後漢書
辰韓,耆老自言秦之亡人,・・・有城栅屋室。
諸小别邑,各有渠帥,大者名臣智,次有儉側,次有樊秖,次有殺奚,次有邑借。
( 次有 樊秖 按:集解引惠棟說,謂魏志「秖」作「穢」。)
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→後漢代と魏代(晋代)で本当に韓の官位名が一致していたのか?(また、弁辰と辰韓が異なっていますが、更に分かりにくくなりそうなので今回は置いておきます)
これについては、三木氏の「大乱の前後で国数が同じとは考え難い」という見解が妥当と思われ、それからの流れで、韓も「官位名がここまで一致しているのはおかしい」と見るのが妥当と思えます。
これは相当重大になります。
というのは、まず韓も「桓、靈之末,韓濊強盛,郡縣不能制,民多流入韓國」などの混乱を経ており。官名だけでなく、韓伝に78国も出ている「国名」も、どの時代のものか?という疑問が湧きます。
当方個人的には後漢代と推測。
それが魏志倭人伝にも影響して来ます。
倭でも「大乱前後で大変革が有った」と推測出来て、倭人伝に記載の国名は「大乱前の後漢代のものか、或いは大乱後の魏代のものか?」ということになります。
倭人伝の読み方で国名も重視されて来ていますが、まず「どの時代の国名か?」から論議しないと、的を射た論議にならないと想定され、根本的な見直しが必要になって来ると想定されます。
以上