邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B043)佐伯有清氏の見解検証2(史料系統...山尾幸久氏見解とも比較) 

佐伯氏の史料系統への見解で注目点は大鴻臚(だいこうろ)を取り上げています。

<『魏略』 にも東夷伝があったことについては、 『魏略』東夷伝、 および『魏志東夷伝の原型が、大鴻臚(だいこうろ)(外国の賓客、蕃夷の使者のことをつかさどる官庁)に記録、史料の整理されたもののなかにあったからであるとする。>

➡佐伯氏は「『魏略』東夷伝、 および『魏志東夷伝の原型が、大鴻臚に記録、史料の整理されたものの中にあったという考えを取り入れているようです。

その上で、<王沈の経歴からみれば、陳寿史書編纂の環境は、 まったく同じであって、 大鴻臚の記録類を容易にみることができた>ということで、<王沈の『魏書』にも東夷伝はあったとみなすべきであろう。>という結論を導いているようです。

 

山尾幸久氏は別見解のようです。

◆<萢曄は、これらあまたの後漢史によって、みずからの『後漢書』をまとめた。なかでも大きな影響を受けたのは、①の『東観漢記』、華嶠(かきょう)の『漢後書』(かんこうしょ)、袁宏の『後漢紀』であったという

➡当方が注目するのは、原史料は「大鴻臚」か「東観漢記」か?ということになりそうです。

今後検討継続。

以下に佐伯氏と山尾氏の著作の資料系統に関わる部分を引用します

-----佐伯有清氏「魏志倭人伝を読む上」引用開始-----

倭人伝の材料と魚豢の『魏略』。

中書省(ちゅうしょしょう)に所属する著作郎(ちょさくろう)(歴史編纂官、晋の元康二年<二九二>、著作郎は秘書省に所属)の陳寿の手もとには、正史である『三国志』編纂にあたって、官府の文庫から借り出した非常に多くの材料があったであろう。当然、倭人伝の叙述にさいしても多くの資料が活用されたはずである。

陳寿倭人伝の記事の大部分が、魚豢(ぎよかん)の 『魏略』に拠ったものであることは、 疑いない 事実であると、 早くからいわれていた。たしかに倭人伝の書きだしの「倭人は、 帯方(たいほう)の東南大海の中に在り、 山島に依りて国邑を為す」という文と、 『魏略』の「倭は、 帯方の東南大海の中に在り、 山島に依りて国を為す」という逸文とを比べてみると、 倭人伝は『魏略』にもとづいて記述されていると思われる。 そこには、 陳寿の『三国志』、 ひいては倭人伝が、 魚豢の 『魏略』よりも、 あとになって編纂されたものであるという当然の認識がある。

・・・

倭伝をふくむ魚豢の『魏略』 いつ成立したのか、はっきりしたことはわからない。その成立を晋の咸煕ニ年(二六五)、 もしくは二七〇年(晋の秦始六)とするなど、さまざまな推測説がある。
他方、倭人伝をふくむ陳寿の 「三国志」が成立したのは、前述したように晋の太康六年(二八五) ころとみなされている。しからば、陳寿倭人伝は、およそ一五年、ないしは二〇年前に撰述された魚豢の倭伝にもとづいて叙述されたということになる。
 
倭人伝の素材は魚豢か王沈かだが、近時、陳寿倭人伝は、魚豢の倭伝によって記述されているという通説に疑問がよせられることが多くなっている。
通説に疑問をもっ論者は、魚豢の「魏書』が、 おおよそ二七〇年代に書かれ、晋の太康六年(二八五) ころに完成したといわれている陳寿の『三国志』 に先立っことはたしかである。しかし、 その年代差は、 たかだか「数年」であって、両書は、親子関係でなく、兄弟関係とみるのが妥当であると説かれている。
そこでこの論者は、 倭人伝をふくむ『魏志(魏書)』がもとづいた史書は、 王沈(おうしん)(?~二六六)の『魏書』であって、魚豢の『魏略』も、 王沈の『魏書』 に拠ったものであろうとする。ただ問題となるのは、裴松之(はいしようし)注の『魏志』烏丸伝には、王沈の「魏書』、 王粲(おうさん)(一七七~二一七)らが著わした 『漢末英雄記』と同一の書とみられている『英雄記』、 そして『魏略』が引用されていることである。 また鮮卑伝には、 『魏略』だけが引用されている。

ところが東夷伝裴松之が注として掲げたのは、魚豢の『魏略』」ばかりであった。そこ で王沈の『魏書』 には、もともと東夷伝にあたる記述がなかったのであって、そのために烏丸、鮮卑伝のように王沈の『魏書』が引用されていないのだという見解がある。 この説によれば『魏志倭人伝は、 王沈の『魏書』 の流れには属していないということになる。

 

魏志』烏丸伝の書きだしは、「漢の末、遼西(りょうせい)烏丸の大人(たいじん)丘カ居(きゅうりききょ)、衆は五千余落、上谷烏丸の大人難楼(なんろう)、衆は九千余落、各々王を称す。而して遼東属国烏丸の大人蘇僕延(そぼくえん)、衆は千余落、自ら峭王(しようおう)と称す。 右北平烏丸の大人烏廷(うえん)、衆は八百余落、自ら汗魯王(かんろおう)と称す。皆計策勇健有り」となっている。 また鮮卑伝は、「鮮卑は、歩度根(ほどこん)、既に立ち、衆は稍(ようや)く衰弱し、中兄の扶羅韓(ふらかん)、亦(また)別に衆数万を擁して大人と為(な)る」と書き起こされている。

ところが東夷伝の夫余の条は、 「夫余は、長城の北に在り、玄菟(げんと)を去ること千里、南は高句麗と、東は担婁(ゆうろう)と、西は鮮卑と接し、北に弱水有り、方二千里可(ばか)り」と書きはじめられている。また高句麗の条の冒頭には、「高句麗は、遼東の東千里に在り、南は朝鮮、濊貊(わいばく)と、東は沃沮と、北は夫余と接す。丸都(がんと)の下(ふもと)に都し、方は二千里可(ばか)り、戸は三万なり」とある。
このような書きだしは、高句麗の条につづく東沃沮、担婁、 濊、韓、倭人の各条すべてに通じている。すなわち夫余以下、「東夷」の各民族の歴史を叙述するのに、 まず地理的環境から説き起こしている。しかし、 『魏志』の烏丸、鮮卑の両伝は、東夷伝とは、あきらかに異なっている。したがって裴松之は、烏丸、鮮卑の両伝に、王沈の『魏書』の冒頭の文を引用して、 『魏志』 の両伝の記述を補(おぎな)ったのであった。


裴松之が、『魏志』烏丸伝に引用した王沈の 『魏書』烏丸伝は、 「烏丸は、東胡なり。漢の初め、匈奴の冒頓(ぼくとつ)、 其の国を滅ばす。余類、烏丸山を保ち、因りて以て号と為す。俗は騎射を善くす」という文ではじまっていることからたしかめられる。

また裴松之が 『魏志鮮卑伝に注記している王沈の 「魏書』鮮卑伝は、「鮮卑は、亦(また)東胡の余(のこ)りなり。別れて鮮卑山を保(たも)ち、因りて号とせり。其の言語、習俗は、烏丸と同じ。其の地、東は遼水(りょうすい)に接し、西は西城に当(む)かう」からはじまっている。 これには、鮮卑の地理的位置を示す記事がふくまれているから、 それが王沈の『魏書』鮮卑伝の冒頭部分であることがわかる。それは『後漢書鮮卑伝が、 「鮮卑は、 亦(また)東胡の支(わ)かれなり。別れて鮮卑山を依(たも)ち、故に因りて号とせり。其の言語、習俗は、烏桓と同じ」という同類の文で書きだされていることによって確認することができる。

すなわち陳寿の 『魏志』烏丸、鮮卑両伝は、東夷伝の各条の書きだしとは違って、 いきなり遼西烏丸の大人丘カ居など、各大人の部落支配の状況から説きはじめ、あるいは鮮卑の歩度根が首領となったことや、歩度根の次兄扶羅韓が大人となったことから書き起こされている。そのために裴松之は、『魏書』 の烏丸伝と鮮卑伝に、王沈の『魏書』烏丸伝、および鮮卑伝の冒頭部分の記事を引用注記して、陳寿が省(はぶ)いたものを補ったのである。
以上のように陳寿の『魏志』烏丸伝、鮮卑伝と東夷伝とを注意深く王沈の『魏書』に比べて見てみると、 裴松之の『三国志注』 の『魏志東夷伝に、 王沈の『魏書』が、まったく引用されていないわけが明確となってくる。
 「魏志東夷伝の夫余条の「夫余は、長城の北に在り、玄菟を去ること千里」、高句麗条の「高句麗は、遼東の東千里に在り」、東沃沮条の「東沃沮は、高句麗の大山の東に
在り、大海に浜うて居す。其の地形は東北に狭く、西南に長く、千里可(ばか)り」、挹婁条の「 挹婁は、夫余の東北千余里に在り、大海に浜(そ)う。南は北沃沮と接し、未だ其の北の極まる所を知らず」、 濊条の「濊 は、南は辰韓と、北は高句麗、沃沮と接し、東は大海に窮まる」、韓条の「韓は、 帯方(たいほう)の南に在り、東西は海を以て限(かぎ)りと為し、南は倭と接し、 方四千里可り」、そして倭人条の「倭人は、帯方の東南大海の中に在り、 山島に依りて国邑を為す」などという各条の書きだしは、裴松之が引用している王沈の『魏書』烏丸伝、および鮮卑伝の書きだしから類推すれば、陳寿の 「魏志東夷伝の夫余条以下の冒頭の記事と同様のことが、いずれも王沈の 『魏書』 にも記述されていたことは確実である。だからこそ裴松之は、 「魏志東夷伝にだけ『魏書』 の記事を引用注記しなかったのである。
ちかごろ『魏書』 に東夷伝はなかったとする見解が有力になりつつある。だが王沈の『魏書』にも東夷伝はあったとみなすべきであろう。

 

陳寿の『魏志東夷伝裴松之が、 王沈の『魏書』を引用注記しなかったのは、すでに陳寿の『魏志東夷伝に、 王沈の『魏書』のそれと同様の記事があったからである。

そのために王沈の『魏書』と陳寿倭人伝との関係を具体的に示すことは不可能である。他方、王沈の『魏書』と魚豢の『魏略』との関係を物語る記事を、両書の烏丸伝に見いだすことができる。

魚豢の 『魏略』烏丸伝の逸文は、三カ条が知られている。そのうちの一カ条は、裴松之の烏丸伝の注に引用されている。他のニカ条は、 「太平御覧』巻八百四十四、飲食部二、酒中条に他の『魏略』逸文とともに掲げられているもの、 および「潜確居(せんかくきょ)類書』巻六に見えるものである。これら二ヵ条の逸文と、裴松之陳寿の『魏志』烏丸伝に引用注記した王沈の烏丸伝の記事とを比べてみると、 同一の文章をそれらに見いだすことができる。 
すなわち『魏略』逸文の「烏桓の諸部の俗、能く白酒を作る。而るに麹蘗(きくげつ)(こうじ)を作ることを知らず、常に中国に仰(あお)ぐ」(『太平御覧』巻八百四十四)という記事は、裴松之が引用している王沈の『魏書』烏丸伝に、「能く白酒を作る。而るに麹蘗を作ることを知らず。米は常に中国に仰ぐ」とあるのと、 ほば同文である。また『魏略』逸文の「烏丸の俗、其の亡叛(ぼうはん)(逃げそむくこと)して、大人の為に摂(とら)えらる者、諸邑落は受くることを肯(がえ)んぜず。皆之(みなこれ)を逐(お)いて雍狂(ようきょう)の地に至ら使(し)む。地に土(山の誤記か)無く、沙漠(さばく)、流水、草 (木の字脱か)有り。蝮蛇(ふくだ)(毒蛇、まむしのこと)多し。丁零(ていれい)の西南に在り」(「潜確居類書』巻六)という記事は、「魏書』烏丸伝の「其の亡叛して、大人の為に捕(とら)えらる者、諸邑落は受くることを肯んぜず。皆逐(お)いて雍狂の地に至ら使む。地に山無く、沙漠、流水、草木有り。蝮蛇(ふくだ)多し。丁令(ていれい)の西南、烏孫の東北に在り、以て窮困せり」とあるのと、 ほとんど同じ文章である。 ちなみに後漢書』烏丸伝には、烏丸の邑落民が「白酒(はくしゅ)(にごりざけの類)」を作る記事はみえないが、「亡叛」(逃げそむく)の者についての記事は、「若し 亡畔(ぼうはん)(叛の字と同意)して、大人の為に捕えらる者、邑落は之を受くることを得ず、皆(みな)、雍狂の地に徙(うつ)し逐(お)う。沙漠の中、其の土(くに)、蝮蛇(ふくだ)多し。丁令の西南、烏孫の東北に在り」として記載されている。


さらに陳寿の「魏志』には伝を立てなかった西戎伝が魚豢の『魏略』にあって、その逸文には、「盤越国は、 一名漢越王、天竺の東南数千里に在り、益部(蜀の地をいい、益州のこと。今の四川省)と相近し。其の人、小(大の字脱落か)なること中国人と等(ひと)し」とある。
これと同一の記事が王沈の「魏書」逸文に、「盤越国は、一名漢越王、天竺の東南数千里に在り、益部と相近し。其の人、小大(ママ)なること(身分の尊卑のあること)中国人と同(ひと)し (「太平御覧」巻七百九十七)とみえる。
これら三つの『魏略』逸文から、『魏略』は、あきらかに先行する王沈の「魏書」の記事に拠っていることがわかる。
そこで陳寿の撰述した倭人伝も、先行する魚豢の「魏略」倭伝か、もしくは「魏略」と同じように王沈の「魏書」にもとづいて記述されたか、そのいずれかの系譜関係が考えられるのである。

 

魚豢の『魏略』の記事を多く引用している唐の人張楚金撰の『翰苑』鮮卑の項に引く司馬彪(しばひょう) (陳寿と同時代の人)の「続漢書逸文の「鮮卑は、亦東胡の支かれなり。別れて鮮卑山を依ち、故に因りて号とせり。其の言語、習俗は、烏桓と同じなり」は、さきに掲げた『後漢書鮮卑伝の書きだしと、ほとんど同文である。したがって『後漢書鮮卑伝のこの文章は、司馬彪の『続漢書』の文を、そのままもちいたことが知られる。
ところが同じく「翰苑』鮮卑の項に掲げてある「其の地、東は遼水に接し、西は西城に当(む)かう。匈奴(きようど)の冒頓(ぼくとつ)の破る所と為りて自(よ)り、遠く遼東の塞外(さいがい)に竄れ、烏桓と相接(あいせつ)す。未だ嘗て中国に通ぜず。光武の時、南北の単于(ぜんう)、更(こもごも)相攻伐し、匈奴損耗(そんもう)す。而して鮮卑は遂に盛る。燉煌(とんこう)、酒泉(しゅせん)自(よ)り以東の邑落(ゅうらく)の大人、皆(みな)遼東に詣(いた)り賞賜(しょうし)を受く」という「続漢書」の文は、王沈の「魏書」逸文と比べてみると、あきらかに王沈の文に拠って書かれていることがわかる。


つまり司馬彪撰の『続漢書』は、先行史書である王沈撰の『魏書』を継承しており、そして范曄(はんよう)撰の『後漢書』は、『続漢書』を受け継いでおり、『続漢書』を通じて『魏書』の文を継承しているのである。現に『後漢書鮮卑伝の「漢の初め、亦冒頓(ぼくとっ)の破る所と為り、遠く遼東の塞外(さいがい)に竄(のが)れ、烏桓と相接(あいせつ)す。未だ常に中国に通ぜず」という箇所も、王沈の「魏書」の記述を受け継いだ司馬彪の『続漢書』の文を抜きだしたものである。
よく知られているように范曄撰の「後漢書」は、晋の司馬彪の『続漢書』ばかりでなく、呉の謝承(しゃしょう)の『後漢書』、呉の薛瑩(せつえい)の『後漢書』、晋の華矯(かきょう)の『後漢書」、晋の謝沈(しゃちん)の「後漢書」、晋の袁山松(えんさんしょう)の「後漢書」、撰者不詳の「後漢書」、そして東晋の袁宏(えんこう)の「後漢紀」などを参考にして編纂されたものであった。したがって同書の継承関係には複雑なものがあって、ただひとつの史書にしぼって、その記述の継承関係を云々することには慎重でなければならない。


さて王沈の「魏書」には東夷伝がなかったことの理由として、裴松之の「三国志注」 の東夷伝には「魏書」による補注のないこと、また陳寿本人が、東夷伝の序を、「前史の未だ備わざる所を接(つ)がん」と結んでいることがあげられている。
とくに『魏志東夷伝の序の結びの文についていえば、陳寿は「前史の未だ備わざる所」を対象として東夷伝を記したと説いているとして、東夷伝は、陳寿が『魏志東夷伝を編纂する時代以前の『魏書』などには存在していなかったというのである。また魚豢の『魏略」の夫余、高句麗、韓、倭の各条の逸文が、 いずれも「魏志東夷伝の夫余以下の項の書き起こしの文とほば同文であり、 『魏略』 にも東夷伝があったことについては、 『魏略』東夷伝、 および『魏志東夷伝の原型が、大鴻臚(だいこうろ)(外国の賓客、蕃夷の使者のことをつかさどる官庁)に記録、史料の整理されたもののなかにあったからであるとする。要するに王沈の「魏書」には、もともと東夷伝はなく、陳寿の「魏志」と魚豢の「魏略」とに東夷伝があるのは、大鴻臚に東夷にかかわる記録、史料の整理されたものがあり、それにもとづいて、それぞれが東夷伝を撰述したのであったというわけである。したがって『魏志」と「魏略」とは、親子関係ではなく、兄弟関係にあった史書であるというのである。
 
王沈(?~二六六)は、魏の正元年中(二五四~二五五)に、典著作(てんちょさく)の役職にあって、竹林の七賢のひとりとして名高い阮籍(げんせき)(二一〇~ニ六三)や、
博学をもって聞こえ、毌丘倹(?~ニ五五)らが挙兵したとき、彼らを討つのに軍功をあげた荀顗(じゅんぎ)(?~二七四)らと『魏書』の撰修にあたった。その後、王沈は、単独で『魏書』の撰述につとめ、魏が滅亡する咸煕(かんき)二年(二六五、西晋の泰始元年)までに、 それを完成させたようである。
魏が滅び、西晋の王朝が成立すると、王沈は晋朝に迎えられ、御史(ぎょし)大夫、守尚書令などを拝命した。王沈は才能に長じ、 人望があり、 当世に名をあらわしたという。晋王朝の創業にも参与したが、 はかなくも晋の建国二年目にあたる泰始二年(二六六) に、 この世を去ってしまった。王沈の経歴からみれば、陳寿史書編纂の環境は、 まったく同じであって、 大鴻臚の記録類を容易にみることができた。
後世の史家は、 例によって王沈の『魏書』 に対しても、 その評価にきびしいものがあった。そうしたなかで 『魏氏春秋』の撰者孫盛(そんせい)とならべて、 「王沈、孫盛の伍(たぐい)、王業(おうぎよう)を論ずれば、 則(すなわ)ち悖逆(はいぎゃく) (反逆)を党(たす)けて忠義を誣(そし)る。国家を叙すれば、則ち正順(せいじゅん) (正しく道理にそうこと)を抑(おさ)えて簒奪(さんだつ)を褒(ほ)む。風俗を述ぶれば、則ち夷狄(いてき)を矜(たっと)びて華夏(かか)を陋(いや)しむ」という評言には、 注目すべき事がらがふくまれている。
 すなわち、 この評者唐の劉知幾(りゅうちき)(六六一~七二一)が、 王沈の王業(帝王の国土を治める大業)、 国家についての取りあげ方とならべて、 王沈が風俗の叙述にあたって、 「夷狄を矜(たっと)びて華夏(中国)を陋し」めていると批判しているのは注目させられる。王沈が「夷狄を矜.んだと劉知幾がいうのは、かならずや王沈の「魏書』 に、鳥丸、 鮮卑伝以下、夷狄の風俗や来歴を記した伝が立てられていたことを指しているに違いない。夷狄の伝には、当然東夷伝もあったとみなければならない。
 
陳寿の記す「前史の未だ備わざる所を接めん」の意味するもの。
王沈の 『魏書』 には、東夷伝がなかったとする論者は、陳寿東夷伝の序に記している「前史之所未備」を「前史の未だ備えざるところ」と訓みくだし、その対象として陳寿東夷伝を成立させたというのである。 しかし、序の「接前史之所未備焉」という文は、「前史の未だ備わざる所を接めん」と読んで、「これまでの史書に欠けているとこ
ろを集めて編纂しようとするものである」と解釈するのが妥当であろう。東夷伝を立てたということと、 とくに関係がある記述とは思われない。
 

陳寿東夷伝で意図したもの。
陳寿は、東夷伝の序において、 「景初(けいしょ)中、大いに師旅(しりょ)(軍隊) を興(おこ)し、淵(公孫淵) を誅つ。・・・其の後、高句麗背叛(はいはん)し、 又偏師(へんし) (一部の軍隊)遣わし、致討(ちとう)す (征伐する)」と述べている。
これは、景初二年(二三八) 八月、遼東において自立していた公孫淵の政権を滅亡させ、また正始五年(二四四) から同七年(二四六) にわたり高句麗を征討したことを、陳寿は、とくに取りあげて、魏における「東夷世界」、すなわち東アジア世界に視野をひろげることになる画期として、最初の公孫淵討伐、 および正始の高句麗征討を理解していたのである。

その結果として、陳寿東夷伝の序で、「遂に周(あまね)く諸国を観て、其の法俗を采(と)り、小大の区別、各々(おのおの)名号(めいごう)有るを詳紀(しょうき)するを得べし」ということになったと述べている。要するに、景初、正始の戦のあと、「東夷」の国ぐにを、あまねく観察し、その法制や習俗を採訪し、身分の大小の区別や、それぞれに呼び名があるのを詳細に記録することができるようになったというのである。これが陳寿が「魏志東夷伝の序で述べている「前史の未だ備わざる所を接(あつ)めん」と意図した具体的な問題なのであった。
わが倭人伝もその例外ではなく、景初三年(二三九)の記述、および正始元年(二四〇)から同八年(二四七) にかけての記事も、景初、正始の戦後に整理された記録にもとづいて、陳寿が記述したものであった。

-----佐伯氏引用終了-----

 

-----山尾幸久氏新版「魏志倭人伝引用開始-----

P25 『後漢書』の成立事情

後漢書』という史書がある。後漢というのは、紀元一、二世紀の中国を統一支配していた王朝である。後漢が滅んで魏・呉・蜀の三国が鼎立(ていりつ)する。したがって、『後漢書』は、『三国志』よりも古い時代を対象としている。しかし、現在正史として伝えられている「後漢書』は、『三国志』よりもずっとのちに執筆されたものである。
現在の『後漢書』は、苑曄という人がまとめた。左遷されて宣城郡の太守(長官)を務めていた時代のことである。正確な年次はわからない。四二四年または四三二年から数年のあいだである。五世紀前期といっておこう。萢曄は、後漢を対象としたあまたある史書によって、みずからの後漢史をつくった。萢曄の『後漢書』を読むうえで肝心な点がこれである。彼は後漢時代の古い記録を実際に調べたりはしていない。あまたの後漢史のいちばん最後にできたものなのである。
今〃あまたの後漢史″といった。そのなかには、『三国志』よりも前に書かれたものがある。
ただそれらはすべて散逸してしまった。
①『東観漢記』。長い年月にわたって何度も編修が続けられ、後漢時代の終わりに完成した。
光武帝から霊帝までの紀・表・志・伝から成る。伝に甸奴南単子・西羌・西域があったことが、他書に引用された逸文によってわかる。

②呉の謝承(しゃしょう)の『後漢書』。帝紀はなかった。しかし東夷伝があった。韓伝の逸文が残っている。
③呉の詳螢(せつえい)も『後漢記』を著作した。

④蜀の誰周(しょうしゅう)の『後漢記』。諜周は『三国志』の著者陳寿の先生である。①をもとにしてまとめなおした。
⑤晋の司馬彪の『続漢書』。この本の成立は『三国志』とほとんど同時代か、わずかにさかのぼる。『晋書』司馬彪伝にいう。「時に良史なく記述煩雑なり。誰周(④)巳に珊除すといえども、然もなお未だ尽さず。安(安帝)・順(順帝)以下に亡欠するもの多し。彪すなわち衆書を討論し、その聞するところを綴る。世祖(光武帝)に起し孝(孝)・献(献帝)に終る。年二百を編み世十二を録(しる)す。上下通綜(つうそう)し庶事を秀貫(ぼうかん)し、紀・志・伝すべて八十篇をつくり、号(なず)けて続漢初という」。
以上が『三国志』以前にできていた後漢史である。『三国史』以後にも多数の後漢史が書かれた。華嶠(かきょう)・袁宏(えんこう)・謝沈(しゃちん)・袁山松(えんざんしょう)・張璠(ちょうはん)・張瑩(ちょうえい)・崔寔(さいしょく)らの後漢史である。諸書に引用された逸文が収集されているものもある。
さて、萢曄は、これらあまたの後漢史によって、みずからの『後漢書』をまとめた。なかでも大きな影響を受けたのは、①の『東観漢記』、華囑の『漢後書』、衰宏の『後漢紀』であったという。萢嘩は、多くの学者を動員して各種の歴史書を調べさせ、煩雑な部分を削り、簡略な点は補充し、『後漢書』をまとめあげた。彼が執筆したのは本紀と列伝とである。志や表はつくらなかった。しかし現在の『後漢書』には志三十巻が付いている。これは⑤の司馬彪の『続漢書』のそれを取って、後世合体したものである。つまり『後漢書』の紀・伝は五世紀前期に書かれたものであるが、志だけは、二七○年代前後に書かれたものが残っている。

-----山尾氏引用終了-----

以上