「濊」伝の両書比較
(基本的に横方向の項目同士で対応が見られます。但し、一部は順番が変わってています。また「魏代」の記事は後漢書に無し。なお、対応しているように見える記事でも語句や内容が違っている項目が多いです)
hyenaさんとのツィッターやり取り。
●当方:
両書比較の続きで「濊」をやってみました。 添付のように比較すると予想以上に相違大。 「范書の方が年号が入った詳細記事が多い」など、陳書⇒范書の修整は到底有り得いように見えます
●hyenaさん:
https://twitter.com/hyena_no/status/1652482156596432896
>「濊」 『魏志』には後漢代記事が殆どないのに范書には前漢 代も含め年次記事が4件記されています。 >陳書⇒范書の修整は到底有り得い ですね。
●当方:
更に相違箇所が有ります
最後の方
陳書:漢桓時獻之。⇒桓帝時に貢献
范書:使來皆獻之。⇒使者が来る度にこれらを貢献
➡趣旨相違大
他にも冒頭部にもあります。
魏志:今...戶二萬。⇒今はいつか?
➡「今」は他国でも論議がありますが、魏志を後漢代に改作なら時代判定して判断必要。 そんな面倒で益の無いことはやらないでしょうね
●hyenaさん:
以前にも出たかも知れませんが、考えてみれば【西至樂浪】も公孫氏による帯方郡設置は未だ後漢代なので西至帯方でも良かったはずですよね~
(Twitterやり取り以上)
これほどの違いを今後明示して行っても、「魏志依拠」を主張し続ける方がどれぐらいおられるか。
なお、「後漢書と魏志の成立年代」からの認識は強固な事例ブログ。
<「後漢書」は後漢の時代に書かれたものだと思うかもしれませんが、「後漢書」は「魏志倭人伝」よりも後の時代に書かれたものになります。
後漢王朝は、25年に劉秀(光武帝)によって開かれ、220年に曹操の息子である曹丕に皇帝の位を奪われるまで続いたので、それから200年ぐらい後に書かれた文献です。
ちなみに卑弥呼が登場する「魏志倭人伝」は、三国志正史を書いた陳寿によって記載されたもので、呉が滅亡した280年より後に書かれたものだと言われています。
なので時代の流れから言うと、漢書地理志→後漢書東夷伝→魏志倭人伝の順ですが、作成された順は、漢書地理志→魏志倭人伝→後漢書東夷伝ということになります。>
➡中国王朝の「後漢」と「魏」の時系列と、この二つの王朝に関する正史の成立年代順序が逆転していることを詳しく説明しています。
そして最終的には「四国説」に飛んで行ってしまっています^^;
「後漢書は魏志依拠でなく後漢代原資料参照」ということが分かれば、邪馬台国論議の根本が変わって、多くの人が新たな論理構築に参加して頂けるようになれば良いのですが。
以上