邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B049)「後漢書」の「本紀」について

後漢書東夷伝烏桓鮮卑伝」には以下の諸国が記載されています。

 1夫餘 2挹婁 3高句麗 4沃沮 5濊 6三韓 7倭

 8烏桓 9 鮮卑 

 ➡その一方で、今は当方は「本紀」にも注目しています。上記の中の「夫餘・高句麗烏桓鮮卑」は、中国に繰り返し侵入しており、「本紀」に出てくる回数も多くなっています。
また、「倭」は57年・107年の遣使が「本紀」にあります。
それらに対して、「三韓」が「本紀」に出て来ないのは不思議に思っていました(検索でも出ない)。
他も見てみる必要が有るのではないかと思い、「挹婁・沃沮・濊」についても「中国哲学書電子化計画」のサイトを使用して調べてみました。
そうしたら、「挹婁・沃沮」と「三韓」は出ませんでしたが、「濊」については「濊貊」という形で以下の2カ所に出ていました。

(1)《孝靈帝紀
建寧元年(168年)十二月,鮮卑濊貊寇幽并二州。
(2)《孝明帝紀   
永平二年(59年)春正月辛末,宗祀光武皇帝於明堂,帝及公卿列侯始服冠冕、衣裳、玉佩、絇屨以行事。禮畢,登靈臺。使尚書令持節詔驃騎將軍、三公曰:「今令月吉日,宗祀光武皇帝於明堂,以配五帝。禮備法物,樂和八音,詠祉福,舞功德,其班時令,敕群后。事畢,升靈臺,望元氣,吹時律,觀物變。群僚藩輔,宗室子孫,眾郡奉計,百蠻貢職,烏桓濊貊咸來助祭,單于侍子、骨都侯亦皆陪位。斯固聖祖功德之所致也。朕以闇陋,奉承大業,親執珪璧,恭祀天地。仰惟先帝受命中興,撥亂反正,以寧天下,封泰山,建明堂,立辟雍,起靈臺,恢弘大道,被之八極;而胤子無成康之質,群臣無呂旦之謀,盥洗進爵,踧踖惟慚。素性頑鄙,臨事益懼,故『君子坦蕩蕩,小人長戚戚』。其令天下自殊死已下,謀反大逆,皆赦除之。百僚師尹,其勉修厥職,順行時令,敬若昊天,以綏兆人。

➡特に上記(2)は記述量が多くなっています。
但し、「濊貊」についての記述量が多いわけではないですが、当方が着目している「後漢書の原史料」に関係してきます。
魏志」には無い記述であり、「魏志依拠」の通説への反証がまた増えた状態です。
また「魏志」だけでなく、「魏書」にも関係してくると見ています。
それは、(2)の記述は魏代の史書に入れても余り意味がない内容と思われ、それでいて記述が長い。
そのため、「魏書」だけでなく、「魏略」などを含めた魏代史料には入っていなかったと当方は見ます。
結果的に、「後漢書は魏代の史書を参照していない」という推測が、(2)から得られることになり重要と考えています。(「東夷伝」に関しては色々な参照関係の説がありますが、「本紀」の参照関係についても説明できないと、説として成り立たないと思われます)

以上

[追記]

「濊貊」については、上記の「本紀」だけでなく、「高句麗伝」に「元初五年(118年)」と「建光元年(121年)」の年代入りの記事が有ることに今回の調査の一環で気付きました。

これも「魏志」には無く、「魏志依拠」説だと「何処から持って来たのでしょうね?」という疑問になります。(「東夷伝」でも「魏志依拠説」への疑義箇所が又増えました)

[後漢書高句麗伝]

後句驪王宮生而開目能視,國人懷之,及長勇壯,數犯邊境。和帝元興元年春,復入遼東,寇略六縣,太守耿夔擊破之,斬其渠帥。安帝永初五年,宮遣使貢獻,求屬玄菟。

元初五年,復與濊貊寇玄菟,攻華麗城。

建光元年春,幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之,捕斬濊貊渠帥,獲兵馬財物。

宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等,遣使詐降;光等信之,遂成因據險阨以遮大軍,而潛遣三千人攻玄菟、遼東,焚城郭,殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之,而貊人已去。夏,復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊,殺略吏人。蔡諷等追擊於新昌,戰歿,功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳,死者百餘人。秋,宮遂率馬韓濊貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人,與州郡并力討破之,斬首五百餘級。

追記以上