邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B058)「後漢書」本記における東夷諸国の記載回数

まず訂正です。

(B056)と(B057)の2回にわたって「陳長崎教授」の見解として紹介した内容は、ブログ主さんの見解でした。

当該ブログに掲載の陳教授の解釈部分を改めて引用すると以下になります。

<中国魏晋南北朝史学会 副会長 陳長崎教授は以下のように指摘している。

魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない、いくつかの時代の史料が融合した可能性が高く、漢代・三国時代西晋時代の記述が混在している。

例えば、刺使は漢代では監察官、魏の時代では行政官を意味する。魏の時代になると刺使の役割は「行政官」になり「監察官」ではないにも関わらず魏志倭人伝では「監察官」の意味で使われている。つまり、この部分は魏について書かれている文章ではない魏よりも古い漢代の史実が混在している。1つの完成した史料とはいえず部分部分で内容が矛盾しているが、これは倭に関する情報が極めて少ない時代にわかっていることを全て盛り込んだ結果である。」>

 

さて、本日の本題は、「後漢書」本紀に有る「東夷諸国」の記録を調査してみました。

「遣使」と「寇」の話が有って、趣旨が大きく違うので「遣使」には〇印を付けました。

国ごとの集計

上表を見ると以下のことが容易に言えるのではないかと感じました。

後漢朝には東夷の情報が記録されていた

➡「遣使」が有ったから、その時に情報を得ることが出来たでしょうし、東夷諸国を管轄する楽浪郡からの情報ももたらされていたでしょう。

結果的に「東夷各国の概要について、後漢朝の史官らが、まとめた史料が存在していた」のは確実と推察します。

そこから、論理的推測として(何からの形で)「東夷伝は有った」と考える方が自然と思います。

ただ、そうなると以下に示す陳寿の「東夷伝序文」との整合性が分からなくなります。

三國志 魏書第三十 烏丸鮮卑東夷傳 東夷伝序文 (三国志現代語訳サイト)

<漢代に張騫を西域に使者として送り、河の源まできわめ、諸国を巡り歩いた。その後都護を置いて、その領域を支配した。その後西域の事をつぶさに尋ねていったので、史官は詳しく記載することができた。

魏が興り、西域はすべて支配することはできなかったが、その地域の大国である龜茲、于寘、康居、烏孫、疏勒、月氏、鄯善、車師が、朝貢をしなかった年は無く、ほぼ漢代の故事のとおりである。

しかし公孫淵が父祖から三世に渡って遼東を支配していた。天子は遼東が遠く離れた地域であった為、海外の事は公孫氏に委ねた。そのため東夷との交流は断たれ、東夷から中国へ使者を送ることもなくなった。

景初中に、大規模な遠征を行い、公孫淵を滅ぼした。又、ひそかに軍を海から行軍させ、楽浪郡帯方郡を接収した。その後、海表は静かになり、東夷は屈服した。・・・

中国は礼を失っていて、これを四夷に求めるのは信用できる。そこでその国を撰定し順序立て、その同異を列ねて、前史で未だ備えていなかった所を補完する。>

➡大きな食い違いと思われ、これを説明するためには、当方としては「陳寿が事実と違う虚偽を書いている」と思うしかなく困惑します。

また、もし陳寿が確信犯的に虚偽を書いていた場合は、陳寿三国志を書いた時点で「東観漢記」がまだ残っていたのは確実です。

そして東観漢記は内容が煩瑣という評価があり、范曄も「刪した」わけですから、東観漢記は今見る後漢書よりも詳しい記述だったと想定されます。

そうなると、もし陳寿が「東夷の情報が無かった」という虚偽を敢えて書いたとしたら、「他の人が東観漢記も見たら、すぐにバレる事実と違う話を何故書いたのか?」という疑問が湧きます。

陳寿に対しては「鉄鏃」修整の可能性などで、「良かれと思っているとしても、おかしな修正をしている要注意者の可能性がある」と個人的に見ています。

しかし、そこまで考えても「すぐバレる虚偽は、やり過ぎではないか?」の疑問がぬぐえません。

非常に困惑します。

(なお、考察が長くなっているので、以降も含めた全体的なまとめを文末の[追記]に箇条書きで書きましたので、結論はそちらを見て頂くと速くなります)

更に、後漢書の方にも課題。

吉川忠夫氏の「范曄と『後漢書』」を以下に抜粋掲載します。

上掲の本紀を始めとして、後漢書は東夷以外も含めた四夷情報が膨大に有ります。

本筋ではない四夷情報まで、これだけ詳しくて書かれていて、「刪(けず)った」結果と言えるのか???

また、これまで見て来たように後漢書には「詔」の引用数が多く、しかもそれを略載するより、詳細に「詔」の内容を引用する方針に見えます。

どうも違和感が有ります。

ただ、その理由が吉川氏の記述から、おぼろげながら見えて来た気がしています。

◆吉川氏「范曄の『後漢書』が華嶠の『後漢書』を襲うところが少なくない」P47

➡更に後方に資料サイトを添付しますが、晋書の記述も有ります。

華嶠は《漢紀》の改訂に取り掛かった。
光武帝から孝献帝までの195年間を、帝紀12卷、皇后紀2卷、十典10卷、列伝70卷にまとめ、三譜、序傳、目錄を加えて、全部で97巻とした。

 

晋書』列14、漢魏からの名族    (「いつかは書きたい三国志」サイト)

<華嶠は、あざなを叔駿という。才學は深博で、少くして令聞があった。
司馬昭が大將軍となると、召して掾屬とし、尚書郎に任じた。車騎の從事中郎に転じた。
泰始初(265年)、關內侯を賜った。太子中庶子に遷った。華嶠は出でて安平太守となったが、親が老いているから行かなかった。さらに散騎常侍を拝し、中書著作となり、國子博士を領ねた。侍中に遷った。

華嶠は博聞多識で、書いた文は事実に忠実で、良史之志があった。
だから華嶠は秘書監に転じて、散騎常侍を加えられ、中書に班同した。
華嶠は、寺(オフィス)を内台に設けて、中書、散騎、著作の事務機能を集めた。
治禮や音律、天文や數術について、華嶠が要点を抜き出し、門下の人が撰集して、統一見解にまとめた。
はじめ華嶠は、《漢紀》が煩雑で、文体が穢れているから、慨然として書き直そうと思った。
たまたま台郎となり、官制の事を典じた。この役得により華嶠は、(洛陽に保管された)秘笈を全て閲覧することができた。華嶠は《漢紀》の改訂に取り掛かった。
光武帝から孝献帝までの195年間を、帝紀12卷、皇后紀2卷、十典10卷、列伝70卷にまとめ、三譜、序傳、目錄を加えて、全部で97巻とした。
華嶠は考えた
「皇后は、配天作合した存在だ。元の《漢紀》では、外戚の列伝の後ろに、皇后紀を置いている。これは皇后の意義を正しく表していない。皇后紀は、皇帝紀の次に置くべきだ」と。
また志を改めて典となし、《堯典》を手本とした。華嶠は、書名を《漢紀》から《漢後書》に変更して提出した。
詔して、朝臣に《漢後書》について検討させた。
ときの中書監の荀勖、中書令の和嶠、太常の張華、侍中の王濟は、みな華嶠の文章を褒めた。>

刮目天のブログ「倭国王帥升は何者だ?」 

<唐の章懐太子李賢の注釈に「華嶠の辞」などと書かれていて、流用した部分があり、全体構成も同一らしい。華嶠は陳寿と同僚であり、共に張華がパトロンであって、華嶠の「後漢書」も西晋の朝廷によって公認された史書だったようだが、残念ながら完本は残っていないようだ(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎2018,p.91)。>

以上

[追記]

本日記事のまとめ

(1)後漢書の本紀にも東夷情報が多くあり、陳寿東夷伝序文の内容とは矛盾するのではないか?

(2)東夷諸国の遣使も多く、通交した東夷諸国の概要をまとめた記録を後漢朝の史官が作成していたことは確実(東夷伝、あるいは東夷伝相当になり得る)

(3)序文との矛盾については、色々解釈は出来ても、「海外の事は公孫氏に委ねた。そのため東夷との交流は断たれ、東夷から中国へ使者を送ることもなくなった」とまで書くのは、公孫氏の前の時代を無視しており明らかにミスリードする記述 ⇒陳寿の真意は?

(4)後漢書でも課題

→底本は「東観漢記」と「華嶠『漢後書』」の可能性が高いと思えて来ましたが、

どちらか?

個人的には「華嶠『漢後書』」と推測。

但し両方も有り得ますが、「東観漢記」を基に華嶠が編纂した『漢後書』が、袁宏と范曄の時代には残っていて参照できたのではないか。(そう考える理由は今は主に直感で、今後精査)

追記以上