華嶠『漢後書』と范曄『後漢書』の比較を更に実施して、⑪~⑰追加(今回は『漢後書』逸文の分析を重視して、『東観漢記』との比較は実施していません)
◆「漢後書逸文」で特徴的なこと
⑯後漢書「西羌伝」と一致の可能性
→一致語句は少ないので「可能性」としておきます。
なお、「漢後書」には、前記事①「南匈奴伝」、⑮「南蛮西南夷列伝」、⑯「西羌伝」で、「四夷伝」が有ったことが推測されます。
漢後書には「烏丸」が出て来る逸文もあり次項で記します(但し後漢書「烏桓伝」とは一致が見つけられず)
また、「鮮卑」と「東夷」諸国は、「漢後書」逸文全体の検索でも出ませんでした。
⑰「烏丸」の記述が有り、後漢書「班梁列傳」との一致が見られる
→後漢書「烏桓伝」とは一致しない。後漢書「班梁列傳」で一致するのは「永初三年冬」の記述で、一方後漢書「烏桓伝」には永初三年夏はあるが冬の記述無し。
(「烏桓伝」関係は表の後にも説明を付けます)
魏書(魏志裴注)にも「烏丸」の記述が有ります。
以下に後漢書「烏桓伝」と魏書(裴注所引 烏丸伝の上記相当箇所を示します。
「漢後書」も含めて、一致箇所の有無が微妙なように見えるので、今後検討。
明、章、和三世,皆保塞無事。安帝永初三年夏,漁陽烏桓與右北平胡千餘寇代郡、上谷。秋,鴈門烏桓率眾王無何允,與鮮卑大人丘倫等,及南匈奴骨都侯,合七千騎寇五原,與太守戰於九原高渠谷,漢兵大敗,殺郡長吏。乃遣車騎將軍何熙、度遼將軍梁慬等擊,大破之。無何乞降,鮮卑走還塞外。是後烏桓稍復親附,拜其大人戎朱廆為親漢都尉。順帝陽嘉四年冬,烏桓寇雲中,
<<魏書(裴注所引) 烏丸伝>>
至安帝時,漁陽、右北平、鴈門烏丸率衆王無何等復與鮮卑、匈奴合,鈔畧代郡、上谷、涿郡、五原,乃以大司農何熈行車騎將軍,左右羽林五營士,發緣邊七郡黎陽營兵合二萬人擊之。匈奴降,鮮卑、烏丸各還塞外。是後,烏丸稍復親附,拜其大人戎末廆為都尉。至順帝時,戎末廆率將王侯咄歸、去延等從烏丸校尉耿曄出塞擊鮮卑有功,還皆拜為率衆王,賜束帛。
以上