邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B066)「倭面土国」について2

hyenaさんから<倭面土国について検討するなら、まずこれ>という趣旨で、「西嶋定生倭国の出現』」の紹介を受けました。

この本は所有しているのですが、まだ詳細は読み切れていませんでした。

ざっと読んだ段階では、『後漢紀』の57年107年遣使を記述しておられて、慧眼な方と感じていました。

但し、hyenaさんによる以下の批判論考を見せて頂いたら、論理展開が疑問な方と分かってきました。

西嶋定生説批判 「倭 国 之 極 南 界 也 」及 び「倭 面 土 国 」について

→論考中の表に引用された「西嶋氏見解」を示します(当方抜粋ですが長文です)

第二の問題とは、『後漢書』倭伝の建武中元二年(五七)倭奴国朝貢記事として、(12)建武中元二年、倭奴国奉責朝賀。使人自称大夫。倭国之極南界也。光武賜以印綬。(建武中元二年、倭の奴国、貢を奉りて朝賀す。使人、自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以ってす。)とある一文のなかに、「倭国之極南界也(倭国の極南界なり)」という叙述があって、「倭の奴国」の位置が「倭国の最南端であることを示していることである。もしこの記事が当時の認識を示すものであるならば、光武帝の末年にはすでに「倭国」が存在していたことになる。しかしながらこの記事はそのようには解釈できないと考えられる。・・・

いうまでもなく『後漢書』倭伝は五世紀のひと、南朝宋代の范曄の撰文によるものである。この部分が後世の挿入であるとすると、それは范曄がこの倭伝を撰述するにあたって、資料に基づく叙述を行なうとともに、適宜その文中に解釈文を挿入したのであり、この部分はその解釈の部分にあたると考えられよう。

そしてその場合、すでに指摘されているように、彼は『魏志』倭人伝のなかの女王の統治する斯馬国以下の二一国の記載のうち、その最後に載せられた「奴国」こそ、中元二年に遣使奉献した「奴国」であると誤認し、しかもこれら二一国は女王国(邪馬台国)より南にある諸国と理解していたから、その最後の「奴国」こそは「倭国」の極南界に位置するものと断じたのであろう。

そうであればこの後漢書』倭伝中の「倭国之極南界也」という一句は、『魏志倭人伝よりも後の時代に、それを参考として作られた文章である、ということになる。
そのように理解すると、(12)の一文のなかに、すでに「倭国」という名称が示されているといっても、そのことは光武帝時代の五七年(中元二)にすでに「倭国」が存在していたことを示すものではないことになる。この「倭国」とは范曄が理解した『魏志倭人伝中の「倭国」であるか、あるいは范曄の時代に一般知識となっていた当時の「倭国」であるか、そのいずれかであると考えてよいであろう。范曄の時代とはまさしくかの倭の五王の時代、すなわち倭王讃以下の倭国王がつぎつぎと宋王朝にたいして遣使奉献していた時代であり、「倭国」はもはや珍しい存在ではなくなっていたのである。>

→この強引かつ無理筋な論理展開は、hyenaさんが論考の中でフローチャートを作成されて、分析かつ批判しておられます。

フローチャートを見ても明らかなように、西嶋氏の理路は憶測の上に憶測を重ねたものに過ぎない> 

→当該本の紹介には「中国史研究の泰斗(たいと)が、文献史料の徹底した読解により・・・」とあり、一般的に能書きはそのまま信用できない場合が有りますが、その事例かも(苦笑)

→「倭面土国」に行く前に、西嶋氏の論理展開に驚いてしまったので、「倭面土国」については、また別途検討することで考えます。

また、「倭国之極南界也」については、邪馬台国論議でも最上級クラスに難解ではないかと、個人的に想定しているので、今の所は手が付きそうにないです。

なお、西嶋氏は「後世の挿入」という推測をされているので、范曄が記した時の『後漢書』原本には、どのような記述だったかが課題になって来ます。

それに関してのhyenaさん見解は以下のようになっています。

<范曄『後漢書』が先行する諸『後漢書』類を藍本として編纂されていることは明らかで、范曄『後漢書』中の記述については、それら藍本中に存在した記述が范曄に引き継がれた可能性を決して無視軽視してはならないと考える。>

→この見解に当方も賛同で、范曄は5世紀の人であり、後漢滅亡から200年以上の長い時が経っていて、後漢代を記述するには「原史料」が必須です。

「原史料」については、このところ当ブログでも検討して来た中で、華嶠「漢後書」が范曄「後漢書」の元になっている可能性が高いことが分かって来ました。更に、その元となったと想定される「東観漢記」を加えると、以下の史料系統ではないか、という推測になります。

『東観漢記』⇒華嶠『漢後書』⇒范曄『後漢書

更に、袁宏『後漢紀』も加えてみます。

(袁宏や范曄が『東観漢記』も直接参照していた可能性は無いとは言えませんが、当方推測は”『東観漢記』は煩瑣とされているので、それを整理した「華嶠『漢後書』を通じて『東観漢記』を参照していたのではないか”というものなので、『東観漢記』からの直接参照ルートの線は入れていません)

→今後検討を深化させていきます。

以上