邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B067)范曄『後漢書』の華嶠『漢後書』依拠(「論」の例)

華嶠『漢後書』逸文と范曄『後漢書』の比較を行っている際に「」でも同じ文章があることに気が付きました。

「范曄」が「論」も流用したのかと思いましたが、引用した後に自らの文章も付加しているので、結果的に”「范曄」の「論」”になっていると推察できました(卑近な言葉ですが「パクリではない」)。

事例①②を示しますが(他箇所もあり)、これは「范曄が華嶠書を参照した」という明確な例でもあります。

しかも華嶠書からの引用と范曄の文章の間には、以下のように「李賢注」が入っています。

自此已上皆華嶠之詞。」(訳例:以上は華嶠の言葉である)

→長い邪馬台国論議の歴史で、漢文を読める優秀な方々もいたのに、この明確な”范曄『後漢書』の華嶠『漢後書』依拠”の事例に関する言及を、当方の管見の限りでは、見たことが無いのは不思議です。

(この記事を出した後にも色々調べていましたら、「吉川忠夫」氏の後漢書訳書の第一巻に含まれる「解題」の中で、華嶠書からの「論」の襲用が書かれていました)

なお、①②とは別の箇所ですが、「李賢注」の入り方が分かり易い「影印」例も③で付けます。

これらを見たら、両書の関係性にすぐに気付いたと思うのですが、実際には学者さんらは、どうしてたのでしょうね。
(前述の吉川氏は「解題」においては、「三国志魏志)」との関係性は言及が有りませんでした)

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①《馮衍傳下》…緑字が李賢注で、黒太字が范曄の文章

②《肅宗孝章帝紀…同上

◆『後漢書』論の訳例

< 論に曰く。魏の文帝は「明帝は察察(細事まで明らかにして仮借の無い
事)としているが、章帝は長者である。」と称えた。(※以上は華嶠
の言葉である。)
章帝は素より民が明帝の苛切(非常に厳しい事)に倦んでいたのを知り、
事毎に寬厚なやり方に従った。・・・>

 

「李賢注」の入り方の影印例

以上