「中国哲学書電子化計画」は検索機能が使いやすくできています。
それで”李賢注『後漢書』において『東観漢記』(李賢注では『東観記』)を検索”すると、出現箇所と出現回数の一覧が表示されます。(以下に添付...「維基」版使用)
気が付いたことをメモしておきます。
①本紀における出現回数
「孝献帝紀」は1箇所だけと少なく、他の帝紀とは異なっています。
しかも以下のように、「初平元年(190年)」なので、東観漢記の記述範囲が、ここからも推測できることになりそうです。
《卷九·帝紀第九孝獻帝》
初平元年(190年)春正月,山東州郡起兵以討董卓。辛亥,大赦天下。癸酉,董卓殺弘農王。白波賊寇東郡。二月乙亥,太尉黃琬、司徒楊彪免。庚辰,董卓殺城門校尉伍瓊、督軍校尉周珌。珌音必。東觀記曰:「周珌,豫州刺史慎之子也。」
②四夷伝での出現箇所
126. 卷一百十六·南蠻西南夷列傳第七十六 - 3筆資料
129. 卷一百十九·南匈奴列傳第七十九 - 4筆資料
➡「東夷伝」での『東観漢記』(東観記)の記載は有りません。但し、本紀でも多数記載がある「烏桓・鮮卑伝」でも有りません。
よって、「東観漢記に東夷伝が有ったか、無かったか?」については、これだけでは結論が得られなさそうです。