邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B069) 内藤湖南「卑弥呼考」の疑問点

当ブログの今までの検証を纏めてみるために、「邪馬台国論議」を遡って考えてみていたところ、重大そうな論点に行き当たりました。

それは、【近代の「邪馬台国論議」の嚆矢となったと思われる内藤湖南氏の論考「卑弥呼考」の記述に複数の大きな疑問がある】ことが分かって来ました。

以下は、湖南氏の見解(「卑弥呼考」から引用)に、当方で①~の番号を付与して、当方考察を述べて行きます。

なお、番号の前部に、暫定ですが、〇✖△等で当方評価を付けます。

また、「卑弥呼考」からの引用は” ”で囲みます。

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後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば、其の倭國傳の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みし所なりき。此の疑惑を決せんことは、即ち本文撰擇の第一要件なり

→まとめると、湖南氏の趣旨は以下と推察

後漢書」倭伝は「三国志倭人伝以外の史料も参照しているかどうか」の決着が必要

→この課題設定は慧眼と思いますが、その検討においては色々疑問。順次説明。

②”三國志は晉代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども・・・

→「湖南」氏が、成立年代の呪縛を見抜けなかったのが一番の痛恨事。

③(前項①の文中で)”後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば・・・”

→「一二にして止らざれば」どころでなく、非常に沢山あり、当ブログで検証を行って来ました。

例:(B015)范曄が三国志を見ないで書けた可能性の検証1(例:『後漢書』夫餘伝)

→この中で、「後漢書の夫餘伝において、魏志に記述が無い部分が半分以上になっている」という検証結果を示しました。

更に夫餘伝だけでなく、他の東夷諸国においても、「後漢書には魏志に無い記述が色々ある」というのが客観的事実で、湖南氏の「一二にして止らざれば」は、事実認識として弱かったと思えます。

④”後漢書倭伝に「城柵」とあるのは、范曄が付与した

→湖南氏見解は以下です。

<有城柵屋室。父母兄弟異處。

三國志には「城柵」の字は、卑彌呼の居處に關する條にのみ見え、人民一般の風俗とは認められざるに、後漢書が其造語の嚴整を主として、人民の屋室にも「城柵」の字を添へたるは蛇足なり>

→これは完全な間違いといって良いレベルと思います。

実際は後漢書韓伝に以下が有ります。

辰韓,耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割東界地與之。其名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。有城柵屋室。諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,次有儉側,次有樊秖,次有殺奚,次有邑借。皆其官名。土地肥美,宜五穀。知蠶桑,作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵,濊、倭、馬韓並從巿之。凡諸貿易,皆以鐵為貨。俗憙歌舞飲酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁,皆押之以石。>

→「有城柵屋室」は倭伝と全く同じ語句です。

更に「諸小別邑,各有渠帥,・・・」と「(ゆう...集住地)」の話が続きます。

つまり、湖南氏は倭伝で「城柵が人民の居室にもかかる言葉」と捉えたようですが、実際は韓伝と同様に、「集落の周りの城柵」の話と捉えるのが、自然かつ適切でしょう。

そうすれば湖南氏が感じた「城柵」に関する違和感も氷解します。

結果的に、湖南氏の大前提である「范曄という人物に対する見方」が破綻します。

後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、・・・”

→「支那史家中、最も能文なる者の一」の人物が、東夷でも最遠の倭について、「巧妙な刪潤で引書の痕跡を消す」という手間をかけた、しかも巧妙のはずが「抜けが色々ある」とする矛盾を、湖南氏がスルーしたようなのは不可解。

⑤「卑弥呼考」には袁宏「後漢紀」の話が無い

→実質的には、これが一番の痛恨事かも知れないと思っています。

未だに「後漢紀にも57年107年遣使記事がある」ことを述べる人の方が少ないというか、当方の管見では、後漢紀の遣使記事について述べている専門家は数人というレベルです。

もし、袁宏「後漢紀」の話が「卑弥呼考」で出ていれば、邪馬台国論議の経緯は大きく変わったであろうと個人的に考えています。

ただ、袁宏「後漢紀」の話が有っても、「後漢書魏志依拠」が間違いと気付かない人もいると思いますが、それは読解力や洞察力の不足という境地になって来そうです。

 

➡「卑弥呼考」への疑問は、まだまだあるので、継続検証予定です。

以上