邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B072) 「魏志依拠」の通説崩壊と吉野ヶ里

吉野ヶ里で新発見が有りました。
今後の詳細調査でどのように展開するかはまだ分かりませんが、発見に至る前の5月初めに倭面土国と九州の地名を結び付けた記事が出ていました。
<「面土(めと)」(面土国)の位置には諸説あるが、七田館長は古墳時代の行政区分に用いられた「米多(めた)」に通じるとして、現在の上峰町米多(めた)や、吉野ケ里の「目達原(めたばる)」に引き継がれたと推測する。

 出土遺物では、吉野ケ里遺跡周辺の複数の首長墳墓から、中国の鏡や鉄製の刀剣などが副葬品として見つかった。このうち、帥升後漢と外交を行った107年までに作られた中国鏡は、上峰町の二塚山古墳と五本谷遺跡から出土しており、いずれかが帥升の墓だった可能性もある。>

→倭面土国については、当ブログでも検討してみていますが、結論を得るのは、なかなか難しいのが実態です。

(B065)「倭面土国」について

それでも「倭面土国」の記述が、魏志倭人伝には無いのは客観的事実です。
ただし、現在見られる後漢書刊本にも「倭面土」は有りませんが、その刊本に至るまでの時代に後漢書を引用した複数の史書に、「倭面土」やその異字体と思われる記述が有るのも客観的事実です(上掲の(B065) ブログ参照)。

結果的に、倭面土国を検討するには後漢書から入ることになります。

後漢書の正しい位置付け(=魏志非依拠)の認識が必須になりますが、「女王の都は二カ所あった」という説の「大和岩雄」氏までもが魏志依拠説でした。

◆大和岩雄「箸墓は卑弥呼の墓か」

中国正史の女王国を倭国とみる誤解記事
女王国は邪馬台国のように女王の都と明記されていないから、中国文献でも女王の都と 解せず、女王が統治する国という誤解がある。『後漢書』は陳寿が三世紀末の西晋時代に撰した『魏志』より後の五世紀前半の刊本で、南宋の范嘩(三九八~四四五)の撰だが、その 『後漢書』倭伝に、
楽浪郡の徼は、其の國を去ること萬二千里
とある。この記述は 『魏志倭人伝の、

都自り女王国に至るには萬二千餘里
を参考にしている。
魏志』の「郡」は帯方郡をいうが、後漢時代には帯方郡はなかったから 「楽浪郡の徼 (境)」に改め、後漢時代の倭国は男王で女王統治ではなかったから、 「樂浪郡の徼(境)」に改めた。また後漢時代の倭国王は男で女王統治ではなかったから、倭国王の 都を女王国と呼ばない。したがって女王国を「其の國」に改めたのである>P147

関連で、二王朝並立論の「久米雅雄」氏も「後漢書魏志非依拠」が認識できていたら、「二王朝と考える理由」に関して後漢書を重視して更に考察を深められたと思います。

◆Wiki「邪馬台国畿内説」(二王朝説)

久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする>

 

後漢書には行程記事が書いてないのですから、魏志との違いをもっと重視すると、倭の中心地が奈良に移行する前の状況が考え易くなると思います。

結果的に「後漢代、或いは後漢代末頃までの倭の中心地は、北部九州に有った」という見立てが充分考えられると思います。

それは「九州説」とも親和性が出て来ます。

ただし卑弥呼が魏に使者を送った当時の倭の中心地が奈良にあったというのは、纏向遺跡箸墓古墳などの考古学見地から、動かせない事実と個人的に捉えています。

従来の邪馬台国論議からすると「畿内説」になりますが、当方の趣旨は繰り返しになりますが、「倭の中心地が後漢代は北部九州にあって、後漢代末か魏代以降は東方に移動して奈良に至った」という見方です。

今後の吉野ヶ里で期待される発見なども客観的に分析しながら、引き続き検討していきます。

以上