邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B073) 魏志倭人伝と「魏使者の報告」について

前回記事で久米雅雄氏の説を検討しましたが、著書の一節に以下の記述が有ります。

<「魏使が不彌国以遠には足を伸ばさなかった、或いは伸ばせなかった」>

→これに対する当方見解は以下です

魏使者:

魏の景初年間以降に、魏使者「梯儁」と軍事顧問団?「張政ら」の少なくとも2回分の魏使者が倭に来ているのは文献上の明確な事実

報告書:

都まで行ったどうかは論議が有り置いておくとしても、使者らは倭には上陸していて、その経過を報告書にしたのは確実。

何か月もかけて倭まで往復したのだから報告書も膨大と推定(移動にかかった期間は不明)。

陳寿は史官として、当該報告書を見られる立場に有ったと思われます。

ただし、陳寿倭人伝の書き方自体は、報告書を全面的に使用しているとは、個人的に思えません。

そこから「倭人伝のどの部分に報告書内容を使用しているか」の検証が必要が必要と考えています。

特産品:

倭人伝で、使者報告書の内容が使用されていそうな箇所を推定すると、まず「特産品」の項目があります。

当ブログで着目している「魏志後漢書」の比較用に、両書の該当部分の文章を以下に示します。

魏志倭人伝

真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹筱簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷,不知以爲滋味。有獮猴、黑雉>

後漢書倭伝

白珠、青玉。其山有丹土>

➡一目瞭然ですが、後漢書魏志の最初の三品「珠・玉・丹」しか有りません。

これに対して「魏志依拠」の通説からは、「范曄が先頭の三品の後は省略した上で引用した」という見方にならざるを得ないでしょう。

もしそうなら、「なぜ三品だけ残す選択になったか?」という疑問がすぐに湧きます。

というのは、三品以外も倭の産物として矛盾は無く、(列伝とされつつ実質は地理志的要素も強いと思われるので)原史料に魏志ほどの数の特産品の記載があったら、あえて大幅に省略して三品のみにする理由は余り無さそうな。

結果的に、通説派の説明はどうなるのでしょうね???

また、これを強引に説明しても、次に「魏志真珠」、「後漢書白珠」の相違が有ります。

「范曄が白珠に変更した」とするなら、その理由は???

しかも、倭人伝では「真珠」と「白珠」が出て来ます。

●魏詔書で魏皇帝からの下賜品の中に「真珠五十斤」

<其年十二月詔書報倭女王、曰「...今以絳地交龍錦五匹、...銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。...」>

●「壹與の献上品」の中に「白珠五千」

<壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹>

➡私的推測としては、”范曄が参照した後漢代原史料の特産品には後漢書と同じく「白珠」となっていたが、陳寿が上記の下賜品「真珠」と献上品「白珠」を記していることも踏まえた何らかの理由で「真珠」に変更した”ことを考えています(当方が想定する核心論点として、全体的に「范曄が変更したか、陳寿が変更したか」が根底にあります…「鉄鏃」の有無等も同様)。

ただし、以下の4種類の記述が、それぞれ何を指しているかは、当方として完全な解明には至っていませんが、少なくとも「魏志真珠」、「後漢書白珠」の相違が有るのは事実です(「真」と「白」の書写間違いは起きないほどの違いと想定...影印例添付)。

(ⅰ)後漢書特産品:「白珠」

(ⅱ)魏志特産品:「真珠」

(ⅲ)魏皇帝下賜品:「真珠」

(ⅳ)壹與献上品:「白珠」

また、習俗全体の魏志倭人伝後漢書の相関性を参考として以下に示しますが、相関が見られる項目であっても記述の順番が両書で大きく相違しています。

通説派はこれも「范曄が変更した」と主張するのでしょうかね???

個人的には、范曄がこのような記述順の変更を行う合理的理由を見つけるのは困難と思われ、結果的に「後漢書魏志依拠は有り得ない」と容易に認識されても良さそうなものですが、通説の抵抗は頑強になりそうな予感 ><

 

参考情報追加として、以下の塚田敬章氏サイトから、塚田氏が「魏使者の報告に基づくと思われる文」を、最初の魏使者「梯儁」と二度目の「張政」の報告に分けて検討しておられるので引用添付。

魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)塚田敬章氏サイト

---引用開始---

魏志倭人伝の構造

 魏志倭人伝は、「魏の関連事項としての倭」を書いたものです。したがって「後漢の関連事項としての倭」を書いた後漢書倭伝とは立場が異なります。その根本的な違いを認識していないと、頭を混乱させることになります。魏志に「旧百余国」とあるのは漢書地理志燕地からの引用、「漢の時、朝見する者あり」は范曄に先立つ後漢代の書からの情報と思われますが、魏とは関係がないので、前史として、あっさり片づけています。
 一番後ろに、魏略の構造分析も加えましたが、後漢のデータを交えたと思われる魏略とは明らかに編纂姿勢が異なって、魏志の方が厳密といえます。

 ●採用資料別色分け
 ●帯方郡使梯儁と張政の報告の区別に関しては、リンクの「魏志倭人伝から見える日本」を参照してください。

1,陳寿の解説、補足
2,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文

 (塚田氏見解:伊都国で旅を終えた最初の使者…伊都国まで行った)
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文
4,裴松之の加えた注
5,魏の公文書の写し(そのままと思われる)
6,魏中央政府の何らかの史料から得た文の要約

倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者 今使訳所通三十国 従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至 対海対馬国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶島 方可四百余里 土地山険多深林 道路如禽鹿徑 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千余里 至末盧国 有四千余戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐 東南至奴国百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二万余戸 東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家 南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸 自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳 次有斯馬国 次有巳百支国 次有伊邪国 次有都支国 次有弥奴国 次有好古都国 次有不呼国 次有姐奴国 次有對蘇国 次有蘇奴国 次有呼邑国 次有華奴蘇奴国 次有鬼国 次有為吾国 次有鬼奴国 次有邪馬国 次有躬臣国 次有巴利国 次有支惟国 次有烏奴国 次有奴国 此女王境界所盡 其南有狗奴国 男子為王 其官有狗古智卑狗 不属女王 自郡至女王国 萬二千余里 男子無大小 皆黥面文身 自古以来 其使詣中国 皆自称大夫 夏后少康之子封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在会稽東治之東 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫 婦人被髪屈紒 作衣如単被 穿其中央 貫頭衣之 種禾稲紵麻蠶桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鉄鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異処 以朱丹塗其身体 如中国用粉也 食飲用籩豆 手食 其死有棺無槨 封土作冢 始死停喪十余日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 已葬 挙家詣水中澡浴 以如練沐 其行来渡海詣中国 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不勤 出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉 其俗挙事行来 有所云為 輒灼骨而卜以占吉凶 先告所卜 其辭如令亀法 視火坼占兆 其会同 坐起 父子男女無別 人性嗜酒(魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀)見大人所敬 但搏手 以當跪拝 其人寿考或百年或八九十年 其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫不妬忌 不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族 尊卑各有差 序足相臣服 収租賦有邸閣 国国有市 交易有無 使大倭監之 自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 両手據地 為之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治国 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓観城柵厳設 常有人持兵守衛 又有侏儒国在其南 人長三四尺 去女王四千余里 又有裸国黒歯国 復有其東南 船行一年可至 参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔 親魏倭王卑弥呼 帯方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帯方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤労 今以難升米為率善中郎将 牛利為率善校尉 假銀印青綬 引見労賜遣還 今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張倩絳五十匹紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八両 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鉛丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝国中人使知国家哀汝 故鄭重賜汝好物也 正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝恩詔 其四年 倭王復遣使 大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上献生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡仮授 其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝仮難升米 為檄告喩之 卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人 更立男王 国中不服 更相誅殺 當時殺千余人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 国中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹

 

【参考 魏略逸文の構造】
「魏略逸文にある「倭人は自ら太伯の後と言う」という重要な情報を魏志の著者、陳寿が見落とすとは考えられない。おそらく、それは後漢代の資料だったので、陳寿に無視されたのだと思われます。「春秋を数えて年紀としている」という魏志裴松之注(魏略逸文)もそうでしょう。

1,最初の帯方郡使、梯儁の報告に基づくと思われる文の要約
2, 奴国の朝貢により得られた後漢代の史料に基づくと思われる文の要約
3,二度目の帯方郡使、張政の報告に基づくと思われる文の要約

倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里復有国皆倭種 従帯方至倭 循海岸水行歴韓国 到拘邪韓国七千里 始度一海千余里至対馬国 其大官卑狗副曰卑奴 無良田 南北市糴 南度海至一支国 置官与対同 地方三百里 又度海千余里至末盧国 人善捕魚能浮没水取之 東南五百里到伊都国 戸万余 置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚 其国王皆属女王也女王之 南又有狗奴国 女男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王 自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語自謂太伯之後 昔夏后少康之子封於会稽 断髪文身以避蛟龍之害 今倭人又文身以厭水害也 其俗不知正歳四時 但記春耕秋収為年紀 倭国大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視坼占吉凶倭 南有侏儒国 其人長三四尺 去女王国四千余里

---引用終了---

→これについての考察は今回はありません。

以上