邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B121) 吉備と纏向の関係性検討1「宮山型特殊器台」

最近記事で、纏向遺跡の「宮都」としての考察を書きました。

(なお「都」の一文字だと、イメージが湧きにくい感じもするので今後は「宮都」を使ってみます。「宮都とは、もともと『宮室、都城』を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを中心とした一定の空間のひろがりを示しています」by橿原研

 

「纏向」と「吉備」との関係も重要になります。お二方のポストを参考にさせて頂いて考察。

楊堅@Youken1316さん2023年10月24日9:00

考古学的に想定される「吉備の分裂」の終焉が3世紀初頭なので、そのように考えています。ただ、これでは大乱が長すぎるので、開始時期がもう少し遅いのかもしれません。後漢書では、倭国大乱を霊帝治世という中国側の混乱期に重ねて記述し、その結果実際の大乱の時期より早くなってそうです>

◆アヂ@csagevさん

<吉備分裂自体は2世紀末か2世紀いっぱい(〜庄内式前半)と考えます。AD200前後には最初に瀬戸内と南関東(廻間I式末〜II式初)で前方後円墳が出現し、吉備の纒向型前方後円墳と大規模な弧帯文様の変化を経た宮山式、矢藤治山式の出現が庄内式後半併行で卑弥呼共立後と考えられ3世紀初頭〜前半です>
➡「宮山式特殊器台」は箸墓古墳からも発見されています。
そのため、吉備の宮山墳墓群と纏向は関係性が有り、時期も近いと推測できます。
wikiを見ると以下のようになっています。
-----Wiki引用開始-----

宮山型(終末型)

終末型には二つの型がある。矢藤治山型と宮山型の型式で、それぞれ一遺跡しか知られていない。両方から出土した特殊壺からほぼ同じ時期であることが分かる。この期の特殊壺は、二重口縁の土師器に似てきている。壺の底は焼く前から穴を開け、中には酒などが入らないように作られていた。

・矢藤治山(やとうじやま)型

岡山市矢藤治山遺跡(古墳)。向木見型が崩れて、省略されて、ある程度の変遷をし、その最後に来る終末期の一つの形式であり、矢藤治山遺跡からしか出土していない。特殊壺の口縁帯には鋸歯文が描かれている。

・宮山型

宮山型特殊器台は、吉備では総社市宮山遺跡の宮山遺跡(古墳)からしか出土していない。特殊器台の口縁は分厚く、先が内に傾いており、特別な口縁部をしている。文様は、立坂型や向木見型には見られず、矢藤治山型の文様を拡大したよう文様で、同じような弧帯文の線を2本、3本と平行に重ねて横へ展開させて、それを短い直線で結んでいる。文様が非常に複雑。新しい種類であり、新しく考え出された文様である。特殊壺の口縁帯や頸には刷毛目が施されている。 

古墳時代始期との関連
宮山型特殊器台は、吉備で1遺跡、奈良県(大和)で4遺跡から出土しているが、どちらがはじめに作り始めたかは分かっていない。出現期古墳の1つである奈良県桜井市箸墓古墳は3世紀頃の築造と考えられているが、同古墳からは宮山型特殊器台を出土しており、古墳時代の始期は終末型特殊器台・特殊壺が現れた頃に近いと考えてよい。箸墓古墳(280メートル)の他に、天理市西殿塚古墳(219メートル)、同市中山大塚古墳(120メートル)、橿原市弁天塚古墳(100メートル以上)などの比較的大型で前方部が撥形で最古式の前方後円墳から宮山型特殊器台が出土している。