邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B123) 「都宮としての纏向」の考察2(「渡来人が主導?」)

纏向遺跡についてさらに検討。

検討の土台として、纏向遺跡の説明例を示します。

纒向遺跡説明例 (桜井市観光協会サイト⇒説明が妥当で専門家が監修と想定)

纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの広大な遺跡で、現在まで150次以上に及ぶ調査が継続的に行われていますが、発掘済みの調査区は全休の5%に過ぎず、まだ全体を解明するにいたっていませんが、3世紀の国内最大級の集落跡で邪馬台国畿内説の最有力地とされています。 

纒向遺跡は、3世紀初めに突如として大集落が形成され、集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持つ、発生期の古墳群が存在しています。また農業を営まない集落である事、東海系など他地域から運び込まれた土器が多い事、極めて特殊な掘立柱建物が存在し、高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性がある事などから、日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられています。>

➡色々な特徴があり、これらの説明が求められます。

その中で根本的課題として、何故「纏向」が選ばれたか?という疑問。

[仮説1]

まず先日から記していますが、以下仮説。

■魏の使節を迎えるために画期的な「中国風宮都」の造営を企画したのではないか

→参考にしたであろう本場中国の宮都は海から離れた内陸部に存在。

一方日本(倭)では「北部九州・瀬戸内沿岸・出雲・四国」のいずれも、内陸の広い平地は望みにくい。

「中国風の宮都を作る適地」として当時の人たちが「奈良盆地南部」を選択したのではないか。


➡次に、画期的な新都宮を設計・造営する技術力が当時の倭に有ったか?という疑問。

[仮説2]

■渡来人が設計と造営を主導したのではないか

→「経過推測」として思いつくままに要因や出来事を列挙してみます。

2世紀末の180年前後(光和年間:梁書)に倭国大乱と卑弥呼共立

→広域統一が実現し、復興の後に発展して国力増大と推測⇒これが邪馬台国

◆2世紀末は中国も混乱

黄巾の乱など⇒朝鮮半島を経由して中国からの亡命者・移住者を受け入れたのではないか。

◆220年魏建国

後漢末は混乱・衰亡が続き、倭も接触が困難かつ接触する気も余り無かったと推測した上で、新しい魏の建国には目を付けて、朝貢を行うと共に、魏使節の来倭要請を考えたのではないか。

◆画期的な新都宮を構想

→魏使節に倭の国力を見せるために中国風都宮(但し城壁無し)の造営を企画と想定。

◆設計や造営指揮などは渡来人に主導させたのではないか

→当時の倭では経験したことがない画期的事業で、知識や技術が不足していて、渡来していた中国人集団に主導させたのではないか。例として以下。

・「中心軸を揃えた建物配列

・「短期間での大規模造営」(上記説明での「突如として形成」に対応)

・「箸墓の真円の後円部

・「平地に盛り土して(現在に至るまで)長期に持つ築造技術

◆宗教も中国の影響があった?

後漢書では卑弥呼神道黄巾の乱の「鬼道」の関連性があるかどうか?

◆漢字の使用

→中国からの渡来人が漢字使用を担ったと推察⇒魏との交渉や卑弥呼の上表文など。

これは倭人では無理は明らかなので、少なくともこれだけでも「中国人が関与した証明」になると思われる。

◆薄葬令

→折角造営したが、中国での「薄葬令」の情報がもたらされたと推測。

埋葬だけでなく、全体的に華美が抑制された可能性も考えられると同時に、倭国内的にも身の丈を越えた大事業で歪が出て揺り戻しが有ったのではないか。

結果的に、纏向は早い時期に都宮としては放棄され、中国人も関与が減少。

そのため、一旦ある程度定着した漢字使用が、その後失われて行ったのではないか。

これは、中国との交渉中止にも繋がって四世紀の空白が生まれたのではないか。

◆洪水の影響

→平地に作ったので、水害に襲われて、それが繰り返され放棄せざるを得なかったのは確実と推測。立地に無理があった。

◆高台移転

→垂仁宮や景行宮は、纏向遺跡の中心部と思われる大型建物群より、ずっと上の方に位置(ただし、都宮跡は未発見)。

また、崇神天皇陵や景行天皇陵などは箸墓と異なり、丘陵切断で造営。

西殿塚も同様だが、大型建物と箸墓古墳の配置の関連性を考えると、台与の墓についても検討可能。つまり、三世紀前半がほぼ確実と思われる大型建物と箸墓の造営時期が近いということになるので、その後に台与没。合葬の可能性は有っても、箸墓が台与の単独墓は時代的に有り得ないのでは。

➡まだまだ色々出てくると思いますが、一旦ここまで。

以上

[補足]

■時代感の検討用で、年号が分かる出来事卑弥呼初遣使は240年に近いので省略)

→この約60年間に以下のようなことがあったと推測可能

・大乱の荒廃からの復興

・新政権の体制づくり

・新体制での各種施策

・反乱が有った場合の鎮圧と支配領域の拡大

・纏向新都宮の構想

・新都宮の造営

・魏への遣使と魏使節来倭

箸墓古墳の築造(基本部分)

・同(表面の整備・・・卑弥呼没してから外観装飾の葺石等実施と推測)

etc

 

補足以上