以上
「銅鏃と鉄鏃」という箇所を抜粋します。
以上
「吉備」について検討をしていく中で、「矢藤治山古墳(墳丘墓)」が、「弥生時代と古墳時代の転換点」に位置すると考えられる重要な遺跡であることを認識できました。更に調査した結果として幾つかの記事をメモ。
矢藤治山古墳は、岡山市西花尻・東花尻にある前方後円墳で、墳長約35.5m、後円部径約23.5m、後円部高約3 m、前方部長11.8mである。前方部はバチ形に開く。葺石があり、特殊器台とも特殊器台形埴輪ともいえるものが並べてある。内部主体は後円部中央に竪穴式石室があり、長さ2.7 m、幅1.0 m、高さ0.7 m、内部に箱形の木棺が置かれていたと推測されている。副葬品は、方格規矩鏡1、勾玉1、ガラス小玉50、鉄斧である。前方部にも埋葬施設がある。
本墳はそれ程大きな規模ではないが、学術的に大きな意味を持っている。弥生時代には地域ごとに独自の墓制(墳丘墓)が展開していたが、古墳時代になると、前方後円墳を頂点とする墓制へと変わる。そして大きさも全長が278 mの奈良県桜井市箸墓古墳が造営されるなど、飛躍的に大規模なものがでてくる。
矢藤治山古墳はちょうどその変換点に位置し、前方後円墳という墓制の成立を解明するための重要な手掛かりを持っている。
ここ(添付の現地説明板)では終末期の弥生墳丘墓ではなく、最初期の古墳に位置付けられているようだ。その墳形は撥型の前方後円墳。最初期の古墳とされる箸墓古墳も撥型である。
重要なのは矢藤治山と箸墓の両古墳に共通する墳形、特殊器台や特殊壺という出土品である。両者には密接なつながりが考えられるのだ。
それでは、どちらが先に造られたのだろうか。吉備が大和の影響を受けたのか。それとも大和に影響を与えたのか。大和に成立した王権と吉備との関係性をどのように捉えるかに関わる問題だ。
箸墓の被葬者を卑弥呼とするならば、かなりの重要人物が矢藤治山に葬られているのだろう。卑弥呼が吉備の系譜をひく証拠なのか。吉備の豪族が大和王権から墳形の許可をいただいたのか。中国製の鏡はどのような意味をもつのか。分からないことだらけだが、ちょっとした散策にはちょうどよい史跡である。
◆記事3
矢藤治山に築かれた3世紀半ばの前方後円墳。平成2〜4年に岡山大学の発掘調査が行われ、中国製の方格規矩鏡、獣形勾玉、鉄斧、向木見型特殊器台、特殊壺などが出土した。特殊器台の文様や形態からは、大和の箸墓古墳よりも古いことになり、日本最古の前方後円墳の一つではないかという研究者もいる。
➡上記記事を書いた皆さんは、「矢藤治山古墳の築造時期」に関心がお有りだが、結論は出ていないようです。
現状における当方の個人的見解は以下に記しておきます。
■箸墓古墳からは特殊器台(但し宮山型)だけでなく、都月型円筒埴輪も出ているので、箸墓の方が新しいのではないか
→更に参考として「箸墓古墳」wikiの抜粋も引用しておきます。
<外表施設・遺物
前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されている。この時期には埴輪列はまだ存在していないが、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。
また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。特殊器台や特殊壺などの出土から三世紀後期以降の古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。>
以上
纏向遺跡についてさらに検討。
検討の土台として、纏向遺跡の説明例を示します。
■纒向遺跡説明例 (桜井市観光協会サイト⇒説明が妥当で専門家が監修と想定)
<纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの広大な遺跡で、現在まで150次以上に及ぶ調査が継続的に行われていますが、発掘済みの調査区は全休の5%に過ぎず、まだ全体を解明するにいたっていませんが、3世紀の国内最大級の集落跡で邪馬台国畿内説の最有力地とされています。
纒向遺跡は、3世紀初めに突如として大集落が形成され、集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持つ、発生期の古墳群が存在しています。また農業を営まない集落である事、東海系など他地域から運び込まれた土器が多い事、極めて特殊な掘立柱建物が存在し、高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性がある事などから、日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられています。>
➡色々な特徴があり、これらの説明が求められます。
その中で根本的課題として、何故「纏向」が選ばれたか?という疑問。
[仮説1]
まず先日から記していますが、以下仮説。
■魏の使節を迎えるために画期的な「中国風宮都」の造営を企画したのではないか
→参考にしたであろう本場中国の宮都は海から離れた内陸部に存在。
一方日本(倭)では「北部九州・瀬戸内沿岸・出雲・四国」のいずれも、内陸の広い平地は望みにくい。
「中国風の宮都を作る適地」として当時の人たちが「奈良盆地南部」を選択したのではないか。
➡次に、画期的な新都宮を設計・造営する技術力が当時の倭に有ったか?という疑問。
[仮説2]
■渡来人が設計と造営を主導したのではないか
→「経過推測」として思いつくままに要因や出来事を列挙してみます。
◆2世紀末の180年前後(光和年間:梁書)に倭国大乱と卑弥呼共立
→広域統一が実現し、復興の後に発展して国力増大と推測⇒これが邪馬台国?
◆2世紀末は中国も混乱
→黄巾の乱など⇒朝鮮半島を経由して中国からの亡命者・移住者を受け入れたのではないか。
◆220年魏建国
→後漢末は混乱・衰亡が続き、倭も接触が困難かつ接触する気も余り無かったと推測した上で、新しい魏の建国には目を付けて、朝貢を行うと共に、魏使節の来倭要請を考えたのではないか。
◆画期的な新都宮を構想
→魏使節に倭の国力を見せるために中国風都宮(但し城壁無し)の造営を企画と想定。
◆設計や造営指揮などは渡来人に主導させたのではないか
→当時の倭では経験したことがない画期的事業で、知識や技術が不足していて、渡来していた中国人集団に主導させたのではないか。例として以下。
・「中心軸を揃えた建物配列」
・「短期間での大規模造営」(上記説明での「突如として形成」に対応)
・「箸墓の真円の後円部」
・「平地に盛り土して(現在に至るまで)長期に持つ築造技術」
◆宗教も中国の影響があった?
→後漢書では卑弥呼は鬼神道⇒黄巾の乱の「鬼道」の関連性があるかどうか?
◆漢字の使用
→中国からの渡来人が漢字使用を担ったと推察⇒魏との交渉や卑弥呼の上表文など。
これは倭人では無理は明らかなので、少なくともこれだけでも「中国人が関与した証明」になると思われる。
◆薄葬令
→折角造営したが、中国での「薄葬令」の情報がもたらされたと推測。
埋葬だけでなく、全体的に華美が抑制された可能性も考えられると同時に、倭国内的にも身の丈を越えた大事業で歪が出て揺り戻しが有ったのではないか。
結果的に、纏向は早い時期に都宮としては放棄され、中国人も関与が減少。
そのため、一旦ある程度定着した漢字使用が、その後失われて行ったのではないか。
これは、中国との交渉中止にも繋がって四世紀の空白が生まれたのではないか。
◆洪水の影響
→平地に作ったので、水害に襲われて、それが繰り返され放棄せざるを得なかったのは確実と推測。立地に無理があった。
◆高台移転
→垂仁宮や景行宮は、纏向遺跡の中心部と思われる大型建物群より、ずっと上の方に位置(ただし、都宮跡は未発見)。
また、崇神天皇陵や景行天皇陵などは箸墓と異なり、丘陵切断で造営。
西殿塚も同様だが、大型建物と箸墓古墳の配置の関連性を考えると、台与の墓についても検討可能。つまり、三世紀前半がほぼ確実と思われる大型建物と箸墓の造営時期が近いということになるので、その後に台与没。合葬の可能性は有っても、箸墓が台与の単独墓は時代的に有り得ないのでは。
➡まだまだ色々出てくると思いますが、一旦ここまで。
以上
[補足]
■時代感の検討用で、年号が分かる出来事(卑弥呼初遣使は240年に近いので省略)
→この約60年間に以下のようなことがあったと推測可能
・大乱の荒廃からの復興
・新政権の体制づくり
・新体制での各種施策
・反乱が有った場合の鎮圧と支配領域の拡大
・纏向新都宮の構想
・新都宮の造営
・魏への遣使と魏使節来倭
・箸墓古墳の築造(基本部分)
・同(表面の整備・・・卑弥呼没してから外観装飾の葺石等実施と推測)
etc
補足以上
纏向は「都宮」として造営されたと想定して、関連考察を行ってみます。
その前に、纏向より以前に倭の中心地が有ったのではないかと思える「吉備」の話。
Xでコメントを頂いたので、ここにも収録。
<宮山式は岡山県総社市での纒向型墳形採用と同時に成立してます。大規模な文様変化を経ておりこれも大和の影響が入った可能性もありますが、先後関係としては吉備→大和だと思います>
→倭の中心が基本的に東方向に移動したと想定すると、「吉備→大和」の時系列関係は納得性が有ると思います。宮山墳墓関連は特殊器台だけでなく、「纒向型墳形採用」も非常に重要と思いますので今後検討。
◆楊堅さん
<大和と宮山が同盟したことで、互いの祭祀を融合した祭祀が生まれ、その一つが宮山式特殊器台でしょうね>
→「大和と宮山が同盟」の視点は、「吉備と大和という当時の大勢力が同盟して邪馬台国が成立した」と仮定すれば、国力の飛躍的アップの説明がつくと思われます。後は出雲との関係がどうだったか。
➡吉備の話から、纏向成立の背景として「吉備と大和」の関係が有ったと想定した上で「都宮」としての纏向を考察してみます。
まず、「なぜこのような考察を行うか?」ですが、日本(当時は倭)の古代(紀元後)においての最大の画期は、中国文献から「倭国大乱と卑弥呼共立」ではないかと個人的に考えるためです。
文明は基本的には漸進的な発展を辿ると思います。それで倭の「都宮」も最少は小さいものから始まって、段々大きくなっていったことが考えられます。
しかし、歴史上では条件が整った或る時期に急激に発展する場合があります。
倭の都宮も、卑弥呼共立以降に画期的な規模拡大が図られたのではないか。
また、国力もついて来たところで、海外=中国に目を向けたのではないか。
ただし、中国文献は「倭国大乱・卑弥呼共立」の記述の後は一旦途切れた形になって、次は最初の卑弥呼の魏遣使になります。
この間は記述が空白になっているため、考察も少なかったと思います。
一方実態としては、この間に色々な重大事が起きていたことは確実です。
この文献記述の空白と実態との間を、考古学の成果も利用して、考えてみることが必要になるでしょう。
このような背景を述べた後で、当方の考察の第一歩を記します。
■仮説
「邪馬台国は、魏へ使者を送るだけでなく、魏の使節来倭も要請して、魏や倭内に国力をアピールすることを考えたのではないか。
そして魏使節を迎えるにふさわしい都宮として、纏向を総力を挙げて造営することを考え、実行したのではないか」
→更に想像をたくましくして以下も仮定。
■「吉備と大和」の勢力が中心になって新しい大規模な都宮の造営を構想した時に、海と中国山地の間の狭い平野の吉備よりも、大きな盆地の大和の方が大規模都宮を作り易く、その中でも纏向を選択したのではないか(但し大和の中で纏向を選択した詳細理由の想定は難しい)。
→このように考えると、纏向遺跡の説明に見られる「3世紀初めに突如として現れた」というような記述と整合性が出るのではないかと思えます。
<纒向遺跡は、3世紀初めに突如として大集落が形成され、集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持つ、発生期の古墳群が存在しています>
➡考察の第一歩なので、本記事ではここまでとします。
(今回は「魏使節を迎える構想で作った」という考察にしましたが、魏志倭人伝の記述では「使者が邪馬台国の都宮へ行ったかどうかは判然としない」記述になっていると感じます。その辺も考え出すと更に長くなるので、本記事はここまで)
以上
最近記事で、纏向遺跡の「宮都」としての考察を書きました。
(なお「都」の一文字だと、イメージが湧きにくい感じもするので今後は「宮都」を使ってみます。「宮都とは、もともと『宮室、都城』を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを中心とした一定の空間のひろがりを示しています」by橿原研)
「纏向」と「吉備」との関係も重要になります。お二方のポストを参考にさせて頂いて考察。
◆楊堅@Youken1316さん2023年10月24日9:00
<考古学的に想定される「吉備の分裂」の終焉が3世紀初頭なので、そのように考えています。ただ、これでは大乱が長すぎるので、開始時期がもう少し遅いのかもしれません。後漢書では、倭国大乱を霊帝治世という中国側の混乱期に重ねて記述し、その結果実際の大乱の時期より早くなってそうです>
■宮山型(終末型)
終末型には二つの型がある。矢藤治山型と宮山型の型式で、それぞれ一遺跡しか知られていない。両方から出土した特殊壺からほぼ同じ時期であることが分かる。この期の特殊壺は、二重口縁の土師器に似てきている。壺の底は焼く前から穴を開け、中には酒などが入らないように作られていた。
・矢藤治山(やとうじやま)型
岡山市矢藤治山遺跡(古墳)。向木見型が崩れて、省略されて、ある程度の変遷をし、その最後に来る終末期の一つの形式であり、矢藤治山遺跡からしか出土していない。特殊壺の口縁帯には鋸歯文が描かれている。
・宮山型
宮山型特殊器台は、吉備では総社市宮山遺跡の宮山遺跡(古墳)からしか出土していない。特殊器台の口縁は分厚く、先が内に傾いており、特別な口縁部をしている。文様は、立坂型や向木見型には見られず、矢藤治山型の文様を拡大したよう文様で、同じような弧帯文の線を2本、3本と平行に重ねて横へ展開させて、それを短い直線で結んでいる。文様が非常に複雑。新しい種類であり、新しく考え出された文様である。特殊壺の口縁帯や頸には刷毛目が施されている。
■古墳時代始期との関連
宮山型特殊器台は、吉備で1遺跡、奈良県(大和)で4遺跡から出土しているが、どちらがはじめに作り始めたかは分かっていない。出現期古墳の1つである奈良県桜井市の箸墓古墳は3世紀頃の築造と考えられているが、同古墳からは宮山型特殊器台を出土しており、古墳時代の始期は終末型特殊器台・特殊壺が現れた頃に近いと考えてよい。箸墓古墳(280メートル)の他に、天理市西殿塚古墳(219メートル)、同市中山大塚古墳(120メートル)、橿原市弁天塚古墳(100メートル以上)などの比較的大型で前方部が撥形で最古式の前方後円墳から宮山型特殊器台が出土している。
前記事で、「大型建物の”柱列中心線の延長線上”に箸墓古墳の後円丘の中心が有る」という事実関係を紹介しました。
纏向を都として、都市計画の可能性が有りますが、そうなると色々考察が膨らみます。
例えば、箸墓古墳は平地(緩やかな扇状地)に盛り土をして築造したと推測されています。これは箸墓古墳より後の「丘陵切断型」に比べて工期も投入人員・資材等も多く必要であることは確実です。それは当時の人も重々分った上で、都市計画を優先して箸墓古墳は「盛り土型(当方仮称)」にしたことが推測できます。
しかし、その後は「丘陵切断型」になったのは何故か?
個人的には「曹操の薄葬令」が倭まで影響したのではないかという推測をしてみていますが、長くなるので今後の記事で考察を書きます。
さて、本記事タイトルは「苅谷俊介」氏説にしています。
苅谷氏は、ご存知の方もおられると思いますが、俳優で考古学者という珍しい経歴をお持ちの方です。
著書として「まほろばの歌が聞こえる(1999年刊行)」が有ります。
非常に素晴らしい本ですが、これを読んだときは驚きました。
”「纏向遺跡の配置が都市計画」という当方と同様の着想”を、もっと早くから持たれていました。他にも専門家でも気付いていないような考察が色々載っています。
特に「箸墓築造位置の計画性」については著書の中に以下図と説明が有ります。
➡ざっくり眺めて頂くだけでも、鋭い考察であることが見て取れると思います。
なお、当方の考察との相違は、「苅谷氏は南北軸(上掲「図E」参照、ただし南北軸で考えることは直行軸として必然的に東西軸も関係)」で考えておられるようです。一方で「当方は柱列の中心軸」に注目したのが昨日記事です。
この中心軸については、微妙な違いで色々存在して、ややこしくなっています。
丁度「アヂ@csagev」さんからも以下の示唆を頂きました。
<2023年10月25日
自分も辻地区建物群と箸墓古墳は計画的な配置だと思います。数世代後の行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに東西軸線が斎槻岳を向くという話もありますし。鳥見山を一部整形した桜井茶臼山古墳も墳丘上から三輪山と箸墓古墳が見えるみたいです。>
→詳細検討は今後実施したいと思っていますが、参考に居館域の軸線を以下に示します(「方位は真北から5度西にふれる」となっています)。
→なお、「まほろばの歌が聞こえる」は内容豊富なので全部読むとなると大変ですので、別途苅谷氏が「歴史書通信」という冊子に寄稿した4頁の記事があったので添付します。
その中で、例えば「纏向遺跡に第一期と第二期があった」ということは、聞いたことは有りましたが詳細までは未把握でした。以下のようにまとめられていて非常に参考になりました。
①第一期纒向遺跡……200年頃~250年頃(庄内1~3式段階)
→卑弥呼、魏との交渉、親魏倭国、 狗奴国との抗争、卑弥呼の死、径百余歩の塚
②第二期纒向遺跡……250年頃~310年頃(庄内3~布留1式古段階)
→台与、崇神大王、中枢遷移と纏向遺跡の拡大、晋への使者、初期大和政権黎明期
(「魏志」倭人伝に記された魏と倭の女王の交渉年代 (239年,240年,243年,245年,247年)は、すべて第一期纏向遺跡時代であり、倭の国々の中で「都」の体裁を整えているのも第一期纏向遺跡だけである)
以上
[追記]
楊堅さんポストより
<楊堅 (@Youken1316) 2023年10月25日
前から思ってたんですけど、「古墳時代」っていう名前だと大半の人が興味をそそられないと思うので、開始時期を3世紀初頭まで繰り上げて「大和時代」とかにした方が良くないですかね。これなら一目見て「ああ、ここから日本が始まったのか」ってわかって、少しは興味も湧くと思うんですが>
→本件は当方も以前から課題に感じていました。「古墳時代」の名称の見直しの趣旨は大賛成。
ただ、検討して行くと厄介な面も多いので、今回は当方が主要論点と思っていることをメモしておきます。
①「古墳」の定義をどうするか?
→「古墳時代」の「古墳」という場合は、一般的に「前方後円墳」を前提にしているように感じます。しかし、それだと「纏向型前方後円墳」はどう扱うのか?という課題が生じます。纏向型は(寺沢氏の提唱で?)近年になって注目されて来たので扱いが定まっていないような気もします。
→先日記事でも紹介しましたが、安本美典氏は考古学者「斉藤忠」氏の説をひいて、「箸墓古墳は平地に築造されていることから崇神天皇陵・景行天皇陵より後の築造」として、安本氏の天皇在位平均年数からの自説に(強引に)合わせています。
<■考古学者、斎藤忠の見解
2013年に、百四歳でなくなった東京大学教授の考古学者であった斎藤忠は、以下のようにのべ、あるていどの根拠をあげて、箸墓古墳の築造年代を四世紀の後半とする。
斎藤忠は、まず、崇神天皇陵古墳について、つぎのようにのべる。
「今日、この古墳(崇神天皇陵古墳)の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することを考えてよい」
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える……」(以上、斎藤忠「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号、1966年刊)
崇神天皇についてのこの年代観は、天皇の1代平均在位年数にもとづいて、私(注:安本美典氏)がすでにのべた年代と、よく合致している。
斎藤忠は、さらに、箸墓古墳の築造年代について、つぎのように記す。
「『箸墓』古墳は前方後円墳で、その主軸の長さ272メートルという壮大なものである。しかし、その立地は、丘陵突端ではなく、平地にある。古墳自体のうえからいっても、ニサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)、向山(むかいやま)古墳(景行天皇陵古墳)よりも時期的に下降する。」
「この古墳(箸墓古墳)は、編年的にみると、崇神天皇陵とみとめてよいニサンザイ古墳よりもややおくれて築造されたものとしか考えられない。おそらく、崇神天皇陵の築造のあとに営まれ、しかも、平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて、大工事として人々の目をそばだたてたものであろう。」(以上、「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)。>
➡斎藤氏の説は上記で1966年となっていて、その後の考古学的進歩等で近年では「箸墓古墳は巨大前方後円墳の最古級」のものという認識が定着していると思います。
本記事の冒頭に「箸墓古墳は都の計画に組み込まれていて、位置を合わせるためには盛り土型にする必然性が有った」と述べたのは、ここに密接に関連します。
③(箸墓古墳は考古学的に最古級の前方後円墳という認識だけでなく)「卑弥呼の墓」の可能性があり、その場合は魏志倭人伝の記述(卑弥呼没時期)からの築造年代推定が可能になって来る
→箸墓古墳は「古墳」に含まれるのは確実なので、少なくとも「箸墓古墳以降は古墳時代」とする必要が有るでしょう。
しかし、「古墳」は文化の一面で有り、後の「飛鳥」「奈良」「京都」のように、政治・文化等の中心地で時代を区分する手法を用いれば、箸墓古墳を含む一帯は纏向遺跡なので(纏向に都があったと想定される時期は)「纏向時代」とするのが適切か?という論議にもなろうかと思います。
ただ、「古墳時代」で「箸墓古墳から始まる」とする場合とは若干違いが出て来て、「纏向時代」だと居館域の大型建物群の方が築造が早いと思われ、開始時期を例えば「三世紀初頭」からにする方が適切ということにもなって来るでしょう。
更に、これは多分殆ど当方だけかも知れませんが、論理的に考えると「弥生時代からの画期」は「卑弥呼共立」ではないかと思えます。
そうなると弥生時代の終わりは「大乱」の終了時点となり、180年頃が「弥生時代から次の時代への移り変わりの時期」となります。
しかし、大乱終了から纏向の都や前方後円墳などの築造までは、大乱の混乱が収まって国力が再上昇・拡大して行く期間が必要だったでしょう。
そのため、平城京や平安京への遷都のような時期的区切りがしにくくなります(飛鳥時代も日本書紀の記述が始まっています)。
結果的に「纏向時代」とするにしても、課題が多すぎることになります(「纏向から飛鳥までの時代」をどうするか、という話も出て来そうです)。
それでも日本の古代社会で画期的変化が有ったのは確実なので、何らかの適切な新呼称は必要でしょう。
その名称検討の際は、上記のように(変更で生じる厄介な課題が有っても)「古墳時代」のままにしてしておくことは妥当とは思われず、「大乱・卑弥呼共立・纏向の都と箸墓古墳の築造」などの要素を、考古学と文献史学の両面から総合的に検討する必要が有ると思います(難しいのは重々承知の上ですが)。
追記以上