邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究している(ペンネーム)湖台志郎です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B008)安本美典氏の説について(続)

安本氏の説についての続きです。

同氏著作「巨大古墳の被葬者は誰か」から、箸墓古墳についての仮説引用。

<【四つの仮説】

箸墓古墳については、さまざまな仮説が成立する。すなわち、
[仮説1箸墓古墳の築造時期は、崇神天皇陵古墳よりも新しい。
[仮説2箸墓古墳の築造時期は、崇神天皇陵古墳と、ほば同時期あるいはごくわずか前てある。このばあい、箸墓古墳の被葬者としては、伝承どおり、倭迹迹日百襲姫と考えて大体よいことになるてあろう。古墳築造の時期としては、西暦三五〇年前後を考えることになる。
[仮説3箸墓古墳の築造時期は、崇神天皇陵古墳などよりも古いと考える。西暦三世紀の後半から末ごろと考える。
[仮説4箸墓古墳の築造時期は、西暦三世紀の中ごろと考える。すなわち、「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」とは切り離して、箸墓は卑弥呼の墓である可能性があると考える。

・・・私(安本氏)は、このうちの〔仮説2〕を支持する>

 

→ 一方、安本氏の長年にわたる素晴らしい取り組みである「邪馬台国の会」で、例えば考古学者の「石野博信」氏が出席して、このように述べています。

第257回活動記録

<■邪馬台国の決め手
何が出てくれば邪馬台国が決まるのか。漢字の一部が含まれる封泥が大量に出てきたら、邪馬台国の決め手となるだろう。文書や物品は、装封して封泥で紐の結び目を固めて送られてくる。邪馬台国開封した時にこわれた封泥が残るからである>

→これに対しては、前記の[仮説4〕のように、「箸墓古墳の築造が西暦三世紀の中ごろであれば、箸墓古墳卑弥呼の墓の可能性がある」と、安本氏自らが言っているのです。

石野氏は以下も述べています。

邪馬台国論争は文献が発端となった議論で、『魏志倭人伝』がなければ邪馬台国論争はない。>

→確かに発端は文献ですが、考古学で古墳築造時代を大体決めれば、上記の仮説検証が出来るため、安本氏でさえ認める形で論争に決着をつけることが可能です。

そして、考古学の進歩で[仮説1〕[仮説2〕は否定されて、箸墓古墳崇神天皇陵より”相対的に古い”ことは、もはや確定であることは専門家の石野氏はよくご存じのはず。

学者はお互いの専門分野を侵さないことを不文律のようにしているきらいがありますが、時と場合に依るのであって、邪馬台国論議は国の成り立ちの話にもつながります。

少なくとも、今や完全に無理筋の話(「箸墓古墳の築造時期は崇神天皇陵より新しい」との説(斉藤忠氏など))は、考古学主導で早く決着を付けてしまうことが望ましいと思われます。

なお歴博などの「炭素法による年代測定」には、安本氏らは強力に批判しており、「特殊器台や円筒形埴輪の編年による相対年代決定」の併用が、論議において有効と思います。

以上

[追記]

文献面でも「日本書紀崇神天皇10年条」に箸墓古墳の話があるのは、個人的に非常に重要と考えています。

<倭迹迹日姫命は仰ぎみて悔い、どすんと坐りこんだ。
そのとき、箸で陰部を突いて死んでしまわれた。
それで大市に葬った。
当時の人は、その墓を名づけて箸墓という。 
その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。
大坂山の石を運んで造った。
山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。

(歌は略)>

→古墳築造の記述がこれほど詳しいのは日本書紀全体の中でも箸墓古墳だけです。

幾ら霊感が優れていても、天皇ではなく天皇の伯母の墓が、それまでとは隔絶した大きさの前方後円墳というのは不可解で、もっと深い事情が有るはず。

追記以上

 

 

 

 

 

 

 

 

(B007)安本美典氏の説について

今回は「後漢書魏志の要約ではない」を検証する中で、背景説明のために「後漢書倭伝は魏志倭人伝に依っている」という見解例をまとめてみました。

非常に沢山あるのですが、邪馬台国論議における戦前と戦後の二つの論争の当事者の見解を抽出しました。()内は論争における、各者の主張。

[戦前]

内藤湖南氏(畿内説)

後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし>

白鳥庫吉氏(九州説)

<『後漢書』が此の如き杜撰の文を構成せるは、決して不注意より起りし偶然の誤謬にあらず、實は范曄が『魏志』の本文を誤解したるに因るなり>

[戦後]

古田武彦氏(邪馬台国はなかった)

<范曄はせつかく『三国志』を下敷きとしながら、自分の「ゆがんだ地理像」に従って原文を書き変えてしまったのだ。

三国志』と『後漢書』の記述が異なるとき、五世紀の范曄の文章を根拠にして、三世紀の陳寿の文章を改定することの、いかに危険であるかがわかるだろう>

安本美典氏(邪馬一国はなかった)

< 「後漢書」 の 「倭伝」の文章は、 「三国志」 の 「魏志倭人伝」に近く、 おもに、 「魏志倭人伝」によっていることが明らかである。(同氏著:邪馬台国ハンドブックより)>

 

これら見解については、今後「後漢書魏志の要約ではない」の論考を継続する中で検証予定ですが、改めて論争内容を見直してみた中で、気になったのが「安本美典」氏。

古田武彦」氏を強力に批判しています。

安本氏の批判の方が正しい部分が殆どなのですが、安本氏自身の他の主張に根本的な矛盾が複数あります。

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【安本氏主張例】

①「箸墓古墳は四世紀の築造で(没年推定西暦360年頃の)崇神天皇陵築造の後か同じ頃」

→この主張の裏付けとして、安本氏は「斉藤忠」氏の以下見解を、安本氏が主張を始めた当初からずっと紹介しつづけています。

しかし、この斎藤氏見解は「1966年」刊行誌によるもので、その後の考古学の進歩は著しいものが有ります。

そのためか、纏向遺跡の発掘担当者であった「関川尚功」氏の見解(=「箸墓古墳を3世紀とするのは難しい」)も紹介しています。

 

しかし、関川氏は下表のように、「埴輪による編年で箸墓古墳崇神天皇陵より古い」との見解を示しています。上記斉藤忠氏見解とは逆にも関わらず、安本氏は、それには言及していません。

ご存知の方も多いと思いますが、安本氏は「邪馬台国九州説」で、それを成り立たせるためには「畿内へ東遷」する時間が必要になります。

それに対して、巨大古墳が3世紀の畿内にあると、九州からの東遷はその前の時代となって、年代的に無理が生じます。

どうしても「巨大古墳出現は4世紀」ということにせざるを得ないのが安本氏説。

そのため、結果的に自説のために「考古学の進歩による発見」を無視や批判し続ける状態になっています。

天皇在位平均約10年説

→「九州説」や「東遷説」と並ぶ安本氏の主張の柱が「卑弥呼=天照大神」説です。

これを成立させるのが「天皇平均在位年数約10年」説になります。

しかし、この説だと「古事記天皇没年干支(例:崇神天皇没年西暦換算で318年or258年)」を無視することになり、安本氏は「応神天皇以前の古事記天皇没年干支は信頼できない」とします。

一方、日本書紀天皇没年は、古代天皇において明らかな在位期間の延長が見られるため、実際の没年とは大きく乖離しているでしょう。

その上で記紀両方を考えてみて、古事記天皇没年干支も信頼できないとすると、日本の最初期の正史である記紀の没年記述が、両方とも信頼できないことになります。

そんなことがあるのでしょうか。

特に古事記の没年記述については、上記のような考古学の進歩による古墳年代の特定とも併せて、慎重に吟味する必要があると思います。

また、「七支刀」は文献(日本書紀)と現物(石上神宮所蔵)の年代が合致していると見られ、四世紀の重要資料です。参考としてwikipedia「七支刀」の記述を示します。

日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている>

→安本氏説で崇神天皇没年を360年頃とすると、神功皇后は「崇神→垂仁→景行→仲哀→神功」ですから、年代に矛盾が生じると思われます。

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安本氏の「邪馬台国の会」の取組みなどは、科学的・実証的精神に基づいていて素晴らしい業績と思えるのに、ご自身の主張に関連するところは、自説擁護優先になっているようで残念に思えてなりません。

 

以上

 

 

(B006)”要約ではない”の補足検証2「太伯と大夫」

「太伯と大夫」についても2年前に着目し始めた点です(当時は通説的な「魏略ベース」前提で考えていました)。

これについて東洋学者の「橋本増吉」博士(1880年 - 1956年)がずっと前に示唆を与えてくれていました。

まとめてみると、橋本博士は以下指摘。

(1)陳寿の記述は「二つ或いは三つ」の史料をつなぎ合わせたもの

(2)魏略の方が文意が首尾一貫している(=文脈に無理が無い)

(3)陳寿の接合の手順が拙劣(=文脈に無理が発生している)

⇒当方も同様の印象を持ちます。

 

また上掲引用で、橋下博士は「陳寿は『自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫』を他の史料によって挿入した」と指摘されています(実際は挿入だけでなく削除も行った文章の入れ替え)。

挿入された文章に該当する他史料記述として、後漢書の西暦57年倭奴国遣使記事があります。

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫

こちらは文脈に無理が有りません。

結果的に、「陳寿が別の史料の文章と入れ替えた」ために、魏志倭人伝の当該文章は橋本博士指摘のように文脈に無理が出ています。

これは、「范曄ではなく、陳寿の方が改変(ここでは文章入れ替え)を行った」という証拠の一つになります。

陳寿の文章をそのまま読むべき」とする論者もおられましたが、「後漢書魏志の要約ではない」ことと「両書の相違部分に陳寿の改変が有る」ことが明らかになり、陳寿の文章の見直しが必要になります。

 

以上

(B005)”要約ではない”の補足検証1「石鏃」

「証明1~4」で完全証明と考えていますが、通説とは真逆の結論になるので、補足説明などをして行きます。

 

先ずは「証明1鉄鏃の有無」の文末[補足]に書いた「石鏃」に関する考察です。

「鉄の古代史」という本を書かれた考古学者「奥野正男」氏の研究を引用するブログを参照します。

-----引用開始-----

”刮目天のブログ【検証6】倭国大乱の実相は?”
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/80736449dff443d2d8c2b720f82a7ba0

奥野正男「鉄の古代史ー弥生時代白水社、1991,pp.306-307)。したがって、鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べることにより戦闘の様子をある程度推測できるだろう。

下の表は倭国大乱以前の弥生時代中期から、大乱が起こる後期・終末期・古墳時代初頭にかけて鉄鏃・銅鏃出土の分布を表す。奥野正男がまとめた後に鉄鏃をはじめとして鉄器が相当出土しているが、時代区分を明確にした奥野の調査によって当時の鉄の流通ルートなどが明確になっている。

特徴を見ると、中期に出土する鉄鏃の数は全国的に、後期以降に比べてわずかであり、銅鏃はさらに少ない。福岡県が他県に比べて多少多いが、「この時期にはまだ、鉄鏃と石鏃が併用されていることが少なくない」し、後期以降でも九州中部や東部では石鏃が併用されている。九州以東では銅鏃と石鏃が併用され、鉄鏃は一部の地区を除きほとんど見られないようだ(前掲書P307)

-----引用終了-----

鉄鏃(及び銅鏃)と石鏃の併用」が書かれています。

後漢代は弥生時代になりますから、以下が言えるでしょう。

(1)後漢書の記述対象の後漢代は、弥生時代中期後期で「鉄鏃」が使用されていた

(2)金属鏃(鉄鏃・銅鏃)と石鏃が併用されていた

(3)骨鏃の話は出て来ず、使用されている内に入っていない

⇒結果的に「後漢代に合わせる意図でも、鉄鏃を削除すると逆に後漢代の実態と異なることになる」という矛盾。

これでも「范曄が鉄鏃を削除した」と考えるのかどうか。

以上

[補足]

鉄鏃に関して、以下のような見解も頂いています。

<范曄には後漢時代に倭で鉄鏃が使用されていたという情報がなく、漢書地理志粤地と魏志倭人伝の両書を参照した上で、後漢時代の鉄鏃使用に疑問を抱いて、後漢書倭伝の記述を選択したとは考えられないでしょうか>

→これに対しては、以下の見解が参考になると思えます。

<5世紀の范曄が、ほぼ2世紀中の倭の風俗について、3世紀に編纂された魏志倭人伝の情報を修正すべき新たな情報や思考を持っていたと考えることは難しいのではないか>

→この状況であっても「范曄が鉄鏃削除を実施」と見るかどうか。

 

さて、約2年前に以下のように「鉄鏃の有無」の違いを発見してから、ずっと検証してきた内容がまとまって今回ブログ化出来ました。

後漢書が要約ではない」ことの影響は大きいと思われ、更に綿密な検証を続けて行きます。

追記以上

(B004)後漢書は魏志の要約ではない証明4「漢書地理志」

これまでの証明1~3で「『要約ではない』の完全証明が達成出来た」と考えています。

簡単な図にしてみましたが、魏志に含まれない記述が後漢書に多数あり、これを「要約」とは呼べないことは明らかです。

 

しかし、今までの通説とは真逆になるので、認識し易くするために更に証明を行います。

”証明1「鉄鏃」”では、「漢書地理志粤地」の記述を使用しました。

それが入っている「漢書地理志下」の全体を本場中国のサイトで見てみます。


倭関連を見てみます。(段落番号はこのサイトが独自に付与していると思われます)

有名な「楽浪海中に倭人有り」の文言が段落103にあります。

103 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。

 

後漢書倭伝の終わりにある「會稽海外有東鳀人,分為二十餘國」はここにあります。

132 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云。

→”魏志倭人伝には無い文言”であり、これも「要約ではない」の明確な証明になります。

 

粤地(海南島を含む中国南部)の記述

魏志倭人伝に「夏后少康之子封於会稽 斷髪文身 以避蛟龍之害」がありますが、それと同趣旨の内容がここにあります。

133 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
粵地,牽牛、婺女之分野也。今之蒼梧、鬱林、合浦、交阯、九真、南海、日南,皆粵分也。
134 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身斷髮,以避蛟龍之害。後二十世,至句踐稱王,與吳王闔廬戰,敗之雋李。夫差立,句踐乘勝復伐吳,吳大破之,棲會稽,臣服請平。後用范蠡、大夫種計,遂伐滅吳,兼并其地。度淮與齊、晉諸侯會,致貢於周。周元王使使賜命為伯,諸侯畢賀。後五世為楚所滅,子孫分散,君服於楚。後十世,至閩君搖,佐諸侯平秦。漢興,復立搖為越王。是時,秦南海尉趙佗亦自王,傳國至武帝時,盡滅以為郡云。
→これは「後漢書倭伝」には有りません。

後漢書倭伝と魏志倭人伝の「倭の習俗」を書いている部分(両書の添付は長くなるため省略)は以下の赤字部分とよく似ています。

136 打開字典顯示相似段落    地理志下:    
自合浦徐聞南入海,得大州,東西南北方千里,武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃。自初為郡縣,吏卒中國人多侵陵之,故率數歲壹反。元帝時,遂罷棄之。

⇒しかし、もしこの記述がベースなら、魏志倭人伝の記述が(唱える人が多い)「魏の使者や張政らの報告書をベースにしているという説」との整合性はどうなるか?

これを考えてみると、「使者らが3世紀の倭の状況を実際に見てきた後では、紀元前で気候風土も違う粤地の習俗記述は下敷きにもならない」と思われ、実際に倭の地で見聞した体験を新たに報告すると推測するのは自然でしょう。

もし、その報告を基にして陳寿が書いていたら、3世紀の倭の習俗と紀元前の海南島のそれとは大きく違うことは当然ですから、漢書地理志の記述と、このように似て来ることは考えにくい。

一方范曄は短期間で後漢書を編纂していることも有り、余り考えずに、当時は見ることが出来た後漢代の史料(衆家後漢書?)を殆どそのままで使用したのではないか?

結果的に以下のように推測。

漢書地理志をベースにして(多分)後漢代に書かれた倭の史料が有って、范曄はそれを(多分)殆どそのまま元にして後漢書倭伝にしたのではないか。

一方陳寿は范曄が使った資料か、それと同じような内容の資料を見て、魏代用に(若干)時代修整して魏志倭人伝の習俗記事などにしたのではないか(行程記事などは別の史料参照と想定)。

以上

[補足]

なお地理志の中でも以下の二つは対をなして書かれています。

漢書地理志、燕地「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云」

漢書地理志、呉地「會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云」

⇒参考として、これに関して以下のような見方を述べているブログが有りました。

漢書を編纂した1世紀には、東鯷人が前漢呉地・会稽郡と、倭人のほうは燕地・楽浪郡と関わっていることがわかっていたけれど、この二つは同じ民族ではないかと思われたので、あえて対をなす記述として残し、答えは後代に任せたということだと思われます。そして後漢書では(東鯷人は)「倭」の中に組み入れられたと。>

SOMoSOMo (hateblo.jp) ”東鯷人のゆくえ”

補足以上

(B003)後漢書は魏志の要約ではない証明3「魏志『烏丸鮮卑伝』と後漢書『烏桓鮮卑伝』の比較」

本ブログ第一回は「魏志倭人伝後漢書倭伝」、第2回は両書の「(倭を除く)東夷伝」同士の比較を行って、「後漢書魏志の要約ではない証明」を提示しました。

続いて、(裴注)魏志『烏丸鮮卑伝』と後漢書烏桓鮮卑伝』も比較してみます。

先に結論を述べてしまうと、「要約ではない」証拠が明確に有ります。

 

両伝の冒頭部分を並べます。

 

「烏丸伝」は、裴松之が註をつけた「魏書」(王沈編纂)からの長い引用で始まっています。その後に本来の烏丸伝になります。

それに対して、「烏桓伝」は裴松之註の魏書引用相当部分も本文に含まれています。

つまり、魏志烏丸伝に全くない内容が、後漢書烏桓伝には大量に存在します。

そして、魏志鮮卑伝と後漢書鮮卑伝も同様の構成になっています。

陳寿の「烏丸伝」(「鮮卑伝」も)の構成は、魏志なので後漢代の出来事はあまり書かず、「後漢代のことは他の後漢代の史書等を参照して頂きたい」という意図と推察します。それを裴松之が後から註で補った。

結果的に「後漢書魏志の要約ではない」ことの証明が、疑いようのない形で明確に存在することになります。

 

なお参考として、「王沈魏書引用」が膨大ですが、更に「後漢書は王沈魏書に無い内容も入っている」という特徴も有ります。

以下はその事例ですが、魏志の裴注「魏書」部分と後漢書の比較です。

「王莽」後から「建武二十五年」までの記述ですが、明らかに後漢書の方が記述分量が多いことが見て取れると思います。

内容的には両方に「馬援」将軍が出て来て、同じ時期のことを記述していますが、後漢書の方には王沈魏書に無い建武二十一年と二十二年の年号も有ります。

王沈魏書の原文がどうなっていたかは分かりませんが、裴注の引用部分に相当する部分は後漢書の方が情報量が多くなっています。

以上

(B002)後漢書は魏志の要約ではない証明2「年号付き記述」

史書の記述の中で、「年号」が入っているものは明確な検証がし易くなります。

 

例えば後漢書倭伝では、後漢代における倭の遣使記述が有ることは、よく知られています。

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
●安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。

⇒これは魏志倭人伝には無く、「後漢書倭伝は魏志倭人伝の要約ではないという確実な証明」になっているのですが、何故か、さて置かれて「要約である」という見方が通説のようになっています。

 

出典が明確でないことが影響している可能性が有りますが、実は上記と同じ年号の遣使記述が別の中国史書に有ります。

(「魏志倭人伝への旅」というブログを書いておられる「hyenanopapa」さんから教えて頂きました、また「西嶋定生」氏も著書で紹介されています)

後漢紀」袁宏

中元二年春正月辛未初起北郊祀后土丁丑奴國王遣使奉獻

永初元年十月國遣使奉獻

⇒参照用に、中国サイトでの検索結果画面を文末[補足]に添付しました。

これで、范曄は魏志倭人伝とは別の史料を見て後漢代の遣使記事を書いたことは明確に証明されます(=要約ではない)。

ただ、これは既に分かっていた話ですが、それでも「要約である」という見方が出来上がってしまっているため、東夷伝の他国での年号記事を紹介。

(1)高句麗

[後漢書]建武二十三年冬,句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬。二十五年春,句驪寇右北平、渔陽、上谷、太原,而遼東太守祭肜以恩信招之,皆復款塞。

(2)扶余

[後漢書]桓帝延熹四年,遣使朝賀貢獻。永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。

(3)東沃沮

[後漢書]元朔元年,濊君南閭等畔右渠,率二十八萬口詣遼東内屬,武帝以其地為蒼海郡,數年乃罢。至元封三年,滅朝鮮,分置樂浪、臨屯、玄菟、真番四郡。至昭帝始元五年,罢臨屯、真番,以并樂浪、玄菟。玄菟復徙居句驪。

(4)三韓

[後漢書]建武二十年,韓人廉斯人苏馬諟等,詣樂浪貢獻。

⇒これらの年号と記事が、魏志では記載されていません。

また上記は部分抽出であり、東夷伝全体では、もっと有ります。

また「烏桓鮮卑伝(後漢書)・烏丸鮮卑伝(魏志)」でも、同様に「後漢書にあって魏志に無い年号や記事」が多くあります。

これでは「後漢書魏志の要約である」とは到底言えません。

年号という明確な事項の有無なので、過去の学者などの方々が見抜いて当然と思うのですが、「要約である」という見方の方が定着してしまっているのは不思議な話です。

結果的には、「邪馬台国論議後漢書が要約ではないという認識に立って新たに組み立てることが必要」と感じます。

また、新たな組み立てでの検討も部分的に実施してありますが、先ずは「要約ではない」証明をさらに固めておくために、今後も続けて証明記事を書いていく予定です。

以上

[補足]

後漢紀」での倭の検索結果(遣使2回)

補足以上