邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B120) 「苅谷俊介」氏の纏向遺跡に関する説について([追記]では「古墳時代」の名称について)

前記事で、「大型建物の”柱列中心線の延長線上”に箸墓古墳の後円丘の中心が有る」という事実関係を紹介しました。

纏向を都として、都市計画の可能性が有りますが、そうなると色々考察が膨らみます。

例えば、箸墓古墳は平地(緩やかな扇状地)に盛り土をして築造したと推測されています。これは箸墓古墳より後の「丘陵切断型」に比べて工期も投入人員・資材等も多く必要であることは確実です。それは当時の人も重々分った上で、都市計画を優先して箸墓古墳は「盛り土型(当方仮称)」にしたことが推測できます。

しかし、その後は「丘陵切断型」になったのは何故か?

個人的には「曹操の薄葬令」が倭まで影響したのではないかという推測をしてみていますが、長くなるので今後の記事で考察を書きます。

 

さて、本記事タイトルは「苅谷俊介」氏説にしています。

苅谷氏は、ご存知の方もおられると思いますが、俳優で考古学者という珍しい経歴をお持ちの方です。

著書として「まほろばの歌が聞こえる(1999年刊行)」が有ります。

非常に素晴らしい本ですが、これを読んだときは驚きました。

”「纏向遺跡の配置が都市計画」という当方と同様の着想”を、もっと早くから持たれていました。他にも専門家でも気付いていないような考察が色々載っています。

特に「箸墓築造位置の計画性」については著書の中に以下図と説明が有ります。

➡ざっくり眺めて頂くだけでも、鋭い考察であることが見て取れると思います。

なお、当方の考察との相違は、「苅谷氏は南北軸(上掲「図E」参照、ただし南北軸で考えることは直行軸として必然的に東西軸も関係)」で考えておられるようです。一方で「当方は柱列の中心軸」に注目したのが昨日記事です。

この中心軸については、微妙な違いで色々存在して、ややこしくなっています。

丁度「アヂ@csagev」さんからも以下の示唆を頂きました。

<2023年10月25日

自分も辻地区建物群と箸墓古墳は計画的な配置だと思います。数世代後の行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに東西軸線が斎槻岳を向くという話もありますし。鳥見山を一部整形した桜井茶臼山古墳も墳丘上から三輪山箸墓古墳が見えるみたいです。>

→詳細検討は今後実施したいと思っていますが、参考に居館域の軸線を以下に示します(「方位は真北から5度西にふれる」となっています)。

 

→なお、「まほろばの歌が聞こえる」は内容豊富なので全部読むとなると大変ですので、別途苅谷氏が「歴史書通信」という冊子に寄稿した4頁の記事があったので添付します。

その中で、例えば「纏向遺跡に第一期と第二期があった」ということは、聞いたことは有りましたが詳細までは未把握でした。以下のようにまとめられていて非常に参考になりました。

①第一期纒向遺跡……200年頃~250年頃(庄内1~3式段階)

卑弥呼、魏との交渉、親魏倭国、 狗奴国との抗争、卑弥呼の死、径百余歩の塚

②第二期纒向遺跡……250年頃~310年頃(庄内3~布留1式古段階)

→台与、崇神大王、中枢遷移と纏向遺跡の拡大、晋への使者、初期大和政権黎明期

(「魏志倭人伝に記された魏と倭の女王の交渉年代 (239年,240年,243年,245年,247年)は、すべて第一期纏向遺跡時代であり、倭の国々の中で「都」の体裁を整えているのも第一期纏向遺跡だけである)

 

以上

[追記]

楊堅さんポストより

楊堅 (@Youken1316) 2023年10月25日

前から思ってたんですけど、古墳時代」っていう名前だと大半の人が興味をそそられないと思うので、開始時期を3世紀初頭まで繰り上げて「大和時代」とかにした方が良くないですかね。これなら一目見て「ああ、ここから日本が始まったのか」ってわかって、少しは興味も湧くと思うんですが>

→本件は当方も以前から課題に感じていました。古墳時代」の名称の見直しの趣旨は大賛成。

ただ、検討して行くと厄介な面も多いので、今回は当方が主要論点と思っていることをメモしておきます。

①「古墳」の定義をどうするか?

→「古墳時代」の「古墳」という場合は、一般的に「前方後円墳」を前提にしているように感じます。しかし、それだと「纏向型前方後円墳」はどう扱うのか?という課題が生じます。纏向型は(寺沢氏の提唱で?)近年になって注目されて来たので扱いが定まっていないような気もします。

②「巨大前方後円墳」という定義にすると箸墓古墳は最古級

→先日記事でも紹介しましたが、安本美典氏は考古学者「斉藤忠」氏の説をひいて、「箸墓古墳は平地に築造されていることから崇神天皇陵・景行天皇陵より後の築造」として、安本氏の天皇在位平均年数からの自説に(強引に)合わせています。

第376回 邪馬台国の会 卑弥呼の墓=箸墓古墳の検討

<■考古学者、斎藤忠の見解
2013年に、百四歳でなくなった東京大学教授の考古学者であった斎藤忠は、以下のようにのべ、あるていどの根拠をあげて、箸墓古墳の築造年代を四世紀の後半とする。
斎藤忠は、まず、崇神天皇陵古墳について、つぎのようにのべる。
「今日、この古墳(崇神天皇陵古墳)の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することを考えてよい」
崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える……」(以上、斎藤忠「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号、1966年刊)

崇神天皇についてのこの年代観は、天皇の1代平均在位年数にもとづいて、私(注:安本美典氏)がすでにのべた年代と、よく合致している。

斎藤忠は、さらに、箸墓古墳の築造年代について、つぎのように記す。
『箸墓』古墳は前方後円墳で、その主軸の長さ272メートルという壮大なものである。しかし、その立地は、丘陵突端ではなく、平地にある。古墳自体のうえからいっても、ニサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)、向山(むかいやま)古墳(景行天皇陵古墳)よりも時期的に下降する。

「この古墳(箸墓古墳)は、編年的にみると、崇神天皇陵とみとめてよいニサンザイ古墳よりもややおくれて築造されたものとしか考えられない。おそらく、崇神天皇陵の築造のあとに営まれ、しかも、平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて、大工事として人々の目をそばだたてたものであろう。」(以上、「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)。>

➡斎藤氏の説は上記で1966年となっていて、その後の考古学的進歩等で近年では「箸墓古墳は巨大前方後円墳の最古級」のものという認識が定着していると思います。

本記事の冒頭に「箸墓古墳は都の計画に組み込まれていて、位置を合わせるためには盛り土型にする必然性が有った」と述べたのは、ここに密接に関連します。

箸墓古墳は考古学的に最古級の前方後円墳という認識だけでなく)卑弥呼の墓」の可能性があり、その場合は魏志倭人伝の記述(卑弥呼没時期)からの築造年代推定が可能になって来る

箸墓古墳は「古墳」に含まれるのは確実なので、少なくとも「箸墓古墳以降は古墳時代」とする必要が有るでしょう。

しかし、「古墳」は文化の一面で有り、後の「飛鳥」「奈良」「京都」のように、政治・文化等の中心地で時代を区分する手法を用いれば、箸墓古墳を含む一帯は纏向遺跡なので(纏向に都があったと想定される時期は)「纏向時代」とするのが適切か?という論議にもなろうかと思います。

ただ、「古墳時代」で「箸墓古墳から始まる」とする場合とは若干違いが出て来て、「纏向時代」だと居館域の大型建物群の方が築造が早いと思われ、開始時期を例えば「三世紀初頭」からにする方が適切ということにもなって来るでしょう。

更に、これは多分殆ど当方だけかも知れませんが、論理的に考えると「弥生時代からの画期」は「卑弥呼共立」ではないかと思えます。

そうなると弥生時代の終わりは「大乱」の終了時点となり、180年頃が「弥生時代から次の時代への移り変わりの時期」となります。

しかし、大乱終了から纏向の都や前方後円墳などの築造までは、大乱の混乱が収まって国力が再上昇・拡大して行く期間が必要だったでしょう。

そのため、平城京平安京への遷都のような時期的区切りがしにくくなります(飛鳥時代日本書紀の記述が始まっています)。

結果的に「纏向時代」とするにしても、課題が多すぎることになります(「纏向から飛鳥までの時代」をどうするか、という話も出て来そうです)。

それでも日本の古代社会で画期的変化が有ったのは確実なので、何らかの適切な新呼称は必要でしょう。

その名称検討の際は、上記のように(変更で生じる厄介な課題が有っても)「古墳時代」のままにしてしておくことは妥当とは思われず、「大乱・卑弥呼共立・纏向の都と箸墓古墳の築造」などの要素を、考古学と文献史学の両面から総合的に検討する必要が有ると思います(難しいのは重々承知の上ですが)。

追記以上