邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B118) X(旧twitter)で提示が有った資料に基づく検討(暫定)

X(旧twitter)で提示が有った資料から考察してみました。

テーマは「倭国の範囲の時代的拡大」です。

■「RTbotと化したひさし」さん資料

抽出

<・九州の記述が多い割に、近畿周辺の記述が少ないように見える。
 邪馬台国が近畿ならもう少し記述があってもいいのでは?>

後漢書記述

楽浪郡徼去其國【萬二千里】→「楽浪郡⇔倭」=萬二千里

◆去其西北界狗邪韓國【七千餘里】→「楽浪郡⇔狗邪韓國」=七千里

⇒上記に加えて地理的に以下距離

対馬海峡旅程「韓国南岸⇔対馬壱岐⇔九州北岸」=三千里

➡九州北岸から倭までの距離は以下計算

◆1万2千里-(7千里+3千里)=2千里

→地図に記入してみます(短里相当換算・・・”1里=75m” ⇒ ”2千里=150km”)

→「後漢代の倭の中心地は概ね、この円内に有った」と推測してみると、それらしい感じ(苦笑)がしてきませんか?

ただし、後漢代は、ほぼ2世紀分の期間があります。

その間に倭の直接的な情報が後漢朝にもたらされたのは、57年と107年遣使になるでしょう。

後の時代の方が地理把握の精度が上がるのは確実ですから、後漢書記述の上記「萬二千里と七千里」は107年遣使の使者情報に依っていると考えてみます。

また、上掲地図の円内に倭の中心地が有ったとして、それは「地理的な倭の中心」とは限りません。

倭の範囲は徐々に東に拡大して行ったと推測するのは妥当と思われますから、東はまだ余り広がっていなかったとすると、仮に地図の円内を「倭国の範囲」と考えたらどうでしょうか。

これが冒頭テーマの「倭国の範囲の時代的拡大」につながります。

それは「倭」と「倭国」をどう考えるか?に影響を受けます(「倭人」もありますが)。

「倭」の方が漠然としていて、「倭国」は範囲や領域という言葉と馴染みやすくなるのではないか。

そして「倭国の範囲は時代と共に東に拡大して行ったのではないか」。

109年頃が上掲地図円内とすれば、次の大きな時代的区切りになると思われるのは「桓霊間倭国大乱」が有ります。

これを概ね180年ごろと仮定すると、107年頃から更に倭国の範囲が拡大して行って、「180年ごろ(倭国大乱頃)の倭国の範囲」はどうなっていたか?を考えるのは意味が有ることと思います。

そこで、「楊堅」さん提示の「通史」案を見てみます。

→”倭国大乱時には「吉備」が中心であった”と想定しておられると思えます。

当方も同様の構想が有ります。

結果的に107年遣使以後に倭国の範囲拡大が進展して、吉備方面が中心になっていたのではないか(考古学的にも吉備の「盾築遺跡」や「特殊器台」などが注目されます)。

そこからざっと飛ばしますが、その後卑弥呼の遣使の三世紀前半頃からは纏向が中心になっていたと推察。

暫定考察として1回目は以上です(2回目はいつになるかはまだ分かりませんが)