邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

2023-10-01から1ヶ月間の記事一覧

(B123) 「都宮としての纏向」の考察2(「渡来人が主導?」)

纏向遺跡についてさらに検討。 検討の土台として、纏向遺跡の説明例を示します。 ■纒向遺跡説明例 (桜井市観光協会サイト⇒説明が妥当で専門家が監修と想定) <纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの広大な遺跡で、…

(B122) 「都宮としての纏向」の考察1

纏向は「都宮」として造営されたと想定して、関連考察を行ってみます。 その前に、纏向より以前に倭の中心地が有ったのではないかと思える「吉備」の話。 Xでコメントを頂いたので、ここにも収録。 ◆アヂさん 2023年10月27日 <宮山式は岡山県総社市での纒向…

(B121) 吉備と纏向の関係性検討1「宮山型特殊器台」

最近記事で、纏向遺跡の「宮都」としての考察を書きました。 (なお「都」の一文字だと、イメージが湧きにくい感じもするので今後は「宮都」を使ってみます。「宮都とは、もともと『宮室、都城』を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを…

(B120) 「苅谷俊介」氏の纏向遺跡に関する説について([追記]では「古墳時代」の名称について)

前記事で、「大型建物の”柱列中心線の延長線上”に箸墓古墳の後円丘の中心が有る」という事実関係を紹介しました。 纏向を都として、都市計画の可能性が有りますが、そうなると色々考察が膨らみます。 例えば、箸墓古墳は平地(緩やかな扇状地)に盛り土をし…

(B119) ”纏向遺跡大型建物と箸墓古墳の配置は都(みやこ)の都市計画だった”仮説

アヂ@csagevさんから吉備について以下のコメントを頂きました。 <吉備分裂自体は2世紀末か2世紀いっぱい(〜庄内式前半)と考えます。AD200前後には最初に瀬戸内と南関東(廻間I式末〜II式初)で前方後円墳が出現し、吉備の纒向型前方後円墳と大規模な弧帯文様…

(B118) X(旧twitter)で提示が有った資料に基づく検討(暫定)

X(旧twitter)で提示が有った資料から考察してみました。 テーマは「倭国の範囲の時代的拡大」です。 ■「RTbotと化したひさし」さん資料 抽出 <・九州の記述が多い割に、近畿周辺の記述が少ないように見える。 邪馬台国が近畿ならもう少し記述があっても…