邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B124) 矢藤治山古墳(墳丘墓)

「吉備」について検討をしていく中で、「矢藤治山古墳(墳丘墓)」が、「弥生時代古墳時代の転換点」に位置すると考えられる重要な遺跡であることを認識できました。更に調査した結果として幾つかの記事をメモ。

◆記事1

 矢藤治山古墳は、岡山市西花尻・東花尻にある前方後円墳で、墳長約35.5m、後円部径約23.5m、後円部高約3 m、前方部長11.8mである。前方部はバチ形に開く。葺石があり、特殊器台とも特殊器台形埴輪ともいえるものが並べてある。内部主体は後円部中央に竪穴式石室があり、長さ2.7 m、幅1.0 m、高さ0.7 m、内部に箱形の木棺が置かれていたと推測されている。副葬品は、方格規矩鏡1、勾玉1、ガラス小玉50、鉄斧である。前方部にも埋葬施設がある。
 本墳はそれ程大きな規模ではないが、学術的に大きな意味を持っている。弥生時代には地域ごとに独自の墓制(墳丘墓)が展開していたが、古墳時代になると、前方後円墳を頂点とする墓制へと変わる。そして大きさも全長が278 mの奈良県桜井市箸墓古墳が造営されるなど、飛躍的に大規模なものがでてくる。
 矢藤治山古墳はちょうどその変換点に位置し、前方後円墳という墓制の成立を解明するための重要な手掛かりを持っている。

◆記事2

ここ(添付の現地説明板)では終末期の弥生墳丘墓ではなく、最初期の古墳に位置付けられているようだ。その墳形は撥型の前方後円墳。最初期の古墳とされる箸墓古墳も撥型である。
重要なのは矢藤治山と箸墓の両古墳に共通する墳形、特殊器台や特殊壺という出土品である。両者には密接なつながりが考えられるのだ。

それでは、どちらが先に造られたのだろうか。吉備が大和の影響を受けたのか。それとも大和に影響を与えたのか。大和に成立した王権と吉備との関係性をどのように捉えるかに関わる問題だ。

箸墓の被葬者を卑弥呼とするならば、かなりの重要人物が矢藤治山に葬られているのだろう。卑弥呼が吉備の系譜をひく証拠なのか。吉備の豪族が大和王権から墳形の許可をいただいたのか。中国製の鏡はどのような意味をもつのか。分からないことだらけだが、ちょっとした散策にはちょうどよい史跡である。

記事3

矢藤治山に築かれた3世紀半ばの前方後円墳。平成2〜4年に岡山大学の発掘調査が行われ、中国製の方格規矩鏡、獣形勾玉、鉄斧、向木見型特殊器台、特殊壺などが出土した。特殊器台の文様や形態からは、大和の箸墓古墳よりも古いことになり、日本最古の前方後円墳の一つではないかという研究者もいる。

 

➡上記記事を書いた皆さんは、「矢藤治山古墳の築造時期」に関心がお有りだが、結論は出ていないようです。

現状における当方の個人的見解は以下に記しておきます。

箸墓古墳からは特殊器台(但し宮山型)だけでなく、都月型円筒埴輪も出ているので、箸墓の方が新しいのではないか

→更に参考として「箸墓古墳wikiの抜粋も引用しておきます。

<外表施設・遺物
前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されている。この時期には埴輪列はまだ存在していないが、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。

また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。特殊器台や特殊壺などの出土から三世紀後期以降の古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。>

以上