前記事の最後に書いた”「倭」と「倭国」と「邪馬臺國」をどう捉えるか”についてhyenaさんから以下のコメントを頂きました。
<『宋書』倭国伝の倭王武の上表文にある毛人や衆夷も「国」であり、将軍号に見えるように倭も一つの「国」なんですね。邪馬臺国は倭の中のかなりまとまった大きな「国」と理解するのが穏当ではないかと思いますが、、、>
https://twitter.com/hyena_no/status/1689082802522968064
→「かなりまとまった」という観点から、改めて地図を見てみました。
以下は中国の百科サイトにあった「西暦7世紀」の日本の想定地図です。
どれぐらい正しいかは別にして、九州から徐々に東へ領域を拡大して行ったのは確実。
それが1,2世紀や3世紀ではどうだったか、と考えてみたのですが、(地図に追記した)北部九州をまとめた国が有ったとしても、全体からすると余り広い領域のまとまりには感じられません。
→後漢書の「其大倭王居邪馬臺國」は何を意味するかについて、前から個人的に薄々考えて来ている「范曄が韓伝の百済と同様に、倭伝にも入れ込んだ5世紀情報ではないか」という推察が、またぶり返して来ました(苦笑)
それで考古学面からも考えてみるということで、北部九州以外で「山陰地方」を見ていたら鳥取県作成の資料が有りました。
→右下の方に出来事として「倭国大乱」があり、その頃に考古学的には「盾築遺跡(岡山)」や「西谷墳墓群(島根)」が書かれています。
一見して、やはり”大乱・共立は大きな変化と関連性があったのではないか”という気がして来ます。更に「纒向型前方後円墳」にも繋がって行くでしょう。
関連して前からの違和感なのですが、弥生時代の呼称は西谷古墳群でも「弥生時代後期」や「後期後半」とされているように、〇世紀とか〇〇年頃といった年代は余り言わないのが考古学的作法のように感じます。
相対年代は出せるが、絶対年代は慎重にすべきという姿勢は適切と思いますが、絶対年代でないと湧かないイメージというものもあります。
それがまさしく「倭国大乱・共立」との関係で、文献から光和(178年 - 184年)頃とすれば、そのころに「盾築遺跡」や「西谷墳墓群)」が出現したことになります。
北部九州⇒山陰(出雲)・山陽(吉備)⇒纏向と領域が拡大して行った軌跡を示しているのではないか。そして纏向ぐらいまで行って「大倭王」ではないか。
このような私的構想ですが、どれぐらい現実味があるか、文献と考古学の両面からじっくり考えていきたいと思っています。
以上
[追記]
「大倭王」を「ヤマト王」と解釈する向きもあります。
例 ”大和が大倭でヤマトである”
→「邪馬臺」の呼称も重要になるので、関連して「邪馬臺国」の呼称についてのhyenaさんの綿密な論考と分かり易い図が有りますので、転載させて頂きます。
<時系列で一覧すれば以下の如くで、内藤湖南が既に100年以上前、明言したとおりなのです>
https://twitter.com/hyena_no/status/1689136256289259520
追記以上