邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B077) ブログ「邪馬台国・奇跡の解法」について2

前回記事の続きでブログ引用を続けます(赤字化は当方実施)。

 

●『後漢書東夷伝序文の誤読
 『後漢書東夷伝は、倭伝だけではなく東夷伝の序文から誤字・誤読・無知ぶりを露呈しているが、一事が万事この調子であることがお分かりいただけるはずである。
◆『三国志東夷伝序文
 雖夷狄之邦而俎豆之象存。中国失礼求之四夷猶信。
 「夷狄の邦(くに)といえど俎豆の象(かたち)が存す。
 中国が礼を失えばこれを四夷に求めるを猶(なお)信ず」。
◆『後漢書東夷伝序文
 憙飲酒歌舞、或冠弁衣錦、器用俎豆。所謂中国失礼、求之四夷者也。
 「飲酒歌舞を憙(この)む、或は弁を冠り錦を衣(き)る、俎豆を器に用いる。
 いわゆる中国が礼を失なえばこれを四夷に求めるという者なり」。

 俎豆とは天子が天地神を祀る祭祀儀礼様式をいう代名詞のようなもので、『三国志東夷伝序文は、倭国には中国にならった国家経営様式があったことを述べている。ところが後漢書東夷伝序文は俎豆を「食器」と誤解している。したがって、そのあとに続くと「いわゆる中国が礼を失なえばこれを四夷に求めるという者なり」との脈絡がなく、まったく意味不意の文章になっている。しかも、「いわゆる中国が礼を失なえばこれを四夷に求めるという者なり」とは、『三国志東夷伝序文が述べたことを指しており、ここでも『三国志東夷伝序文からの転載であることを露呈している。

(当方注②:「三国志魏志東夷伝序文を読む」ブログ

<夷狄の国とはいえ、俎豆(祭りの供物をのせたり盛ったりする器、転じて祭祀を言う)の儀礼がある。中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。>

→この解釈で納得性があると思います)

 

●「楽浪郡の徼(国境)は、その国を去ること万2000里」
 後漢書』倭伝書きだしの「倭は韓の東南の大海の中にあり……」は、『倭人伝』のいう「帯方の東南の……」を韓に置き換えただけである。楽浪郡の徼(境界)は、その国を去ること万2000里」も同じく、『倭人伝』のいう「帯方郡から万2000里」を、楽浪郡の境界からの距離に置き換えている。この記録は、朝鮮半島帯方郡が存在しなかった時代のことにしたかったのだろうが、『倭人伝』のいう帯方郡から万2000余里を単に楽浪郡の境界にしたところにも詐術がのぞく。
 それでいて、240年以降に列島の倭を訪れた魏の役人の記録を倭伝に網羅して、いかにも後漢朝が把握していたかのように書いている。現実に、「東夷調査をしたのは魏朝がはじめてである」と、『三国志魏志東夷伝序文がうたっているのである。そもそも、後漢朝が混乱の末期に東夷調査をした事実がないのは明白なのに、これでは歴史ねつ造に近い造作である。
 そうした造作ぶりを、「万2000里」という記録も証明している。なぜならば、列島へ公式に往来した事実のない後漢朝の人間が、列島までの距離を知るはずはない。むろん、この時期は「里程を知らない」はずだった倭人から、楽浪郡の国境と列島間の里程を聞き取れるはずもないのである。

(当方注③:

後漢書は「魏志倭人伝を参照して、部分的に「帯方郡」を「楽浪郡」に置き換えたという見方が有りますが、文章の読み方において、倭だけでなく、もっと視野を広げる必要が有るのではないかと思っています

両書の東夷各国伝の地理に関する記述を列挙します。

魏志

倭人(1)倭人在帶方東南大海之中,依山島爲國邑。舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國。(中略1)(2)自郡至女王國萬二千餘里。(中略2)(3)計其道里,當在會稽東治之東。

●韓伝:韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接,方可四千里。

●濊伝:濊南與辰韓,北與高句麗、沃沮接,東窮大海,

●挹婁伝:挹婁在夫餘東北千餘里,濱大海,南與北沃沮接,未知其北所極。

●東沃沮伝:東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、

高句麗伝:高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。

●夫餘伝:夫餘在長城之北,去玄菟千里,南與高句麗,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水,方可二千里。

三国志魏志)には地理志はないので、東夷伝などは一般的に「列伝」扱いになっていますが、実際は地理志の趣旨が強いと考えます。

地理の説明で先ず重要なのは、対象となる場所の所在地(ロケーション)の説明です。

そのため、ロケーションの説明が冒頭にあって、基本的に一まとまりになっています。

但し倭人伝は、上記の「中略1」には「倭への行程」や「倭内の各国」など、「中略2」には「刺青」の話などが書かれていて、ロケーションの説明が、いわば間延びした形になっています。

なお、「從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里」もロケーションの説明というより、行程説明の一部になっていると想定しています。

結果的に倭人伝のロケーション説明だけが特殊に見えます。

一方、後漢書の当該箇所も列挙します。

後漢書

●倭伝:倭在韓東南大海中,依山島為居,凡百餘國。自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬台國樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,

馬韓伝:馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接,

辰韓伝:辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。

弁韓伝:弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。

●濊伝:濊北與高句驪、沃沮,南與辰韓接,東穷大海,西至樂浪。

●東沃沮伝:東沃沮在高句驪蓋馬大山之東,東濱大海,北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。

高句麗伝:高句驪,在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘接。地方二千里,

●挹婁伝:挹婁,古肅慎之國也。在夫餘東北千餘里,東濱大海,南與北沃沮接,不知其北所極。

●夫餘伝:夫餘國,在玄菟北千里。南與高句驪,東與挹婁,西與鮮卑接,北有弱水。地方二千里,

後漢書は倭伝を含めて、ロケーションの説明が一まとまりになっています。

また、倭伝の「在會稽東冶之東」も、倭人伝の(3)のように離れておらず、一まとまりに繋がっています。

これらを総合すると、倭伝の書き方がロケーション説明として適切であり、范曄も陳寿も参照したであろう後漢代原史料」は、倭伝に近い記述になっていたと推測します。

そして倭人伝は、当方が重視している「陳寿の細工(改変)」の一環として、ロケーション説明も手が加えられて、その結果で「飛び飛び」の説明になったと推察。

しかし、「魏志依拠」の通説の呪縛で、「改変しているのは後漢書の方」という強い思い込みがあり、真相とは真逆に捉えられて来たのが、これまでの邪馬台国論議と思います。

その中で、前回記事でも述べたように伊作さんブログは「魏代の歴史を後漢代の歴史として書くのはレッドカードもの」などの洞察は素晴らしいものが有ります。

これは更に考えると、「魏代の史書魏志)を参照して、後漢代の史書後漢書)を書くと、魏代の出来事が混ざってしまう可能性が出て来て、それを慎重に排除しないとレッドカードものになってしまう」ということになると思います。

「范曄がそのような手間暇をかけたか?ということと、魏代の事象を排除するために必要な後漢代と魏代の時代考証の詳細知識が有ったか?」と考えたら、「有り得ない」という推測になるのが自然でしょう。また、そのようなことをやっていないから、「乃刪衆家後漢書」とされていると理解しています。

今までの邪馬台国論議参加者が、「范曄が衆家後漢書を参照した話は史書にあるのに、三国志参照したという話は全く史書に書かれていない」ことをさほど重要と認識せずスルーして来たのは不思議です。

やはり「通説の呪縛」を断ち切るのは喫緊の課題と感じます。

核心に触れる内容が書けたので、当方考察は一旦ここまでで、以降は引用のみとします

なお、上記の列挙で改めて私的感覚では「其大倭王居邪馬台國」が浮いている感じがするので、今後検討

 

誤読による意味違い
 次の幾つかは、すでに述べたきた部分と重複するので結論だけを再掲する。
◆「武帝の朝鮮を滅ぼしてより、使驛して漢に通ずる者30国ばかり」。
 前漢武帝が朝鮮を滅ぼして4郡を置いたのは、紀元前108年である。『後漢書』倭伝にかかれば、紀元前108年ごろから列島倭国の30カ国ばかりが前漢朝と交流していたことになる。
 献見とは、官庁窓口に貢献物を差し出す程度の意味ではなく、皇帝に接見する朝献・朝見の意味である。前漢朝の都は洛陽のさらに奥の長安だった。紀元前の弥生倭人が年季ごとに長安まで使者を送って、歴代の皇帝に朝献・朝見した事実はない。
 『倭人伝』は「使譯(訳)して通じる所30国」だった。ところが『後漢書』は、「使驛(駅)して漢に通じる者30国」になっている。3世紀にすら牛馬のいなかった倭地の倭人が、駅伝馬を乗り継いで西安まで朝献したという。
◆「楽浪海中に倭人あり」
 後漢書』倭伝が「武帝の朝鮮を滅ぼしてより」と誤解したのは、まさに『漢書』地理志・燕地の条のこの記録だろう。
 「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす。歳時をもって来たり献見すという」。
 中国中央研究院の『後漢書校勘は、『後漢書』倭伝の「使驛」についてはこう指摘している。「驛まさに譯に作る」。「按:魏志は譯に作る」。つまり、驛は譯の間違いだと断定している。譯と驛、字体がそっくりで意味の異なる一字の違いで、かくも歴史のシチュエーシンが違うという典型例である。
◆「おおよそ会計東冶の東にあり」
 『倭人伝』のいう「「その道里を計るに会計東冶の東にあり」は、厳密な地理情報をいう説明記録ではない。倭人の文身の習俗に関する文章で、文身のルーツが越(会稽東冶)地域にあるのではないか」という編纂担当者の所感を述べたものである。「其の道里を計るに」の「計る」は実際に測定したというのではなく、編纂担当者の机上所感であることを物語っている。
 ところが、『後漢書』倭伝はこれを誤読して、「倭は韓東南の大海の中にあり」としておきながら、「おおよそ会計東冶の東にあり」とする。倭地は、韓東南の大海から長江河口付近まで延びていたことにしてしまうのである。
◆「朱崖・儋耳と相近く、ゆえに法俗も多くは同じ」
 これは『倭人伝』が、風俗(性癖)、服装、倭人の装い、産物、動物、武器・武具など、「ある物とない物を比較すると、儋耳・朱崖(海南島)と同じ」と述べた文章が元になっている。
 『後漢書』倭伝は、倭人の文身のルーツに触れた「会稽東冶の東」と、この文章を一つにまとめていわく。「倭の地はおおよそ会稽東冶の東にあって、朱崖・儋耳と相近く、そのために法俗も多くは同じ」。
 『倭人伝』は、「ある物とない物を比較すると、儋耳・朱崖と同じ」と書いた。これを『後漢書』倭伝は、距離的に近いと拡大解釈をしている。『倭人伝』の誤読による間違った記録の典型である。


卑弥呼が女王になった時の様子
 卑弥呼が女王になった時の様子ついて、同じ歴史的経緯を説明した『三国志倭人伝と『後漢書』倭伝には決定的な違いがある。
◆『三国志倭人
 「その国、本また男子をもって王となす。
 とどまるところ7~80年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴る。
 乃ち一女子を共立して王となす。
 名を卑弥呼という。
 鬼道能く事として衆を惑わす。
 年已に長けて大も、夫婿なし」。
 ……長い紛争に困り果てた有力者たちの協議によって、一人の女子を王として共立した。その女性の名を卑弥呼という。彼女は鬼道に堪能で、そのことによって民衆を魅了していた。(そうして、中国の役人が倭の地を訪問したころには)、卑弥呼は成人して久しかった(高齢だった)が、夫はいなかった。
 ……卑弥呼が女王になった時点では、彼女は「一女子」だった。そうした過去形説明と「年已に長大」になっていた現在形説明の間には、文章によって時間差がみてとれる。

◆『後漢書』倭伝
 「桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、主なくして年を歴る。
 一女子あり。名を卑弥呼という。
 年の長けて嫁がず。鬼神道能く事とし、妖やしきをもって衆を惑わす。
 これを共立して王とてなす」。
 ……お分かりだろうか。年増で旦那もいない鬼神道をやる「一女子」が、王として共立されたという。2世紀末ごろ女王になった卑弥呼は、その時点で「女子」どころか「おばさん」である。『三国志倭人伝とは明らかに文節を入れかえている。これによると、卑弥呼おばあさんは、48年後に100歳ぐらいで死亡したことになる。 


●「倭国乱れ相攻伐して年を歴る」
 この部分がどう文章伝世されたのかを見てみよう。
◆『三国志倭人伝「其国本亦以男子為王、住七八十年。倭国乱相攻伐歴年」
 「男王たちが7~80年在位したあと、倭国が乱れて相攻伐して年を歴た」としている。倭人国家が「倭国」と呼ばれるのは107年の帥升からである。そこから7~80年といえば、177年から187年までの幅がある。これを中国皇帝の年号にすると霊帝の後半にあたる。
◆『後漢書』倭伝「桓霊間倭国大乱、更相攻伐 歴年無主」
 177年から187年は霊帝の後半にあたり、桓帝の時代は167年で終わっている。「桓霊の間」はいい加減だし期間がアバウトすぎる。
◆『晋書』倭人伝「漢末倭人乱攻伐不定」。
 『三国志倭人伝を引いて「漢末」に置き換えている。
◆『梁書』諸夷伝「漢霊帝光和中、倭国乱相攻伐歴年」。
 『三国志倭人伝のいうところを皇帝年号に照らして、霊帝の光和中としたようである。光和の年号が使われたのは178年から184年までで、まさに倭人伝のいう177年から187年の間に入る。
◆『隋書』倭国伝「桓霊之間其国大乱、遞相攻伐歴年無主」
 ほぼ『後漢書』倭伝の写しになっている。

 あえてくり返す。
 『後漢書東夷伝の中でもとくに『倭伝』はデキが悪く、范曄が手がけたと思われる本紀や主要な列伝とは雲泥の差がある。『後漢書東夷伝を担当したのは歴史文筆の基本を習熟した人間ではなく、范曄が助手か部下に書かせた節がある。そのデキの悪さからは范曄が校閲した形跡はうかがえないし(その余裕もなかったと思われる)、『後漢書東夷伝の記録の中で『三国志東夷伝との文字違い・意味違い・異同などは、すべて『後漢書東夷伝の間違いと断定できる。そんな『後漢書東夷伝の「間違いの部分」を無批判に正しいとの前提で語ったとしても、私はいかほどの説得力も感じないものである。

 ずいぶん以前のことだが、ある出版関係者から「『倭人伝』は色んな解釈ができる」という言葉を聞いたことがある。「色んな解釈ができる」とは、「どんな解釈でもできる」という方便の言い換えでしかない。だが少なくとも『倭人伝』は、たった一つの意味で書いている。
 自論や自分の解釈に有利な記録はないかと文献漁りをして、二流や異聞とされる文献に飛びつき、文献そのものの信憑性や記録の正否検証もそこそこに、部分的な記録を取りあげて論証や反論に活用する生き方もある。だが、そうした手法による作品を確かな歴史として受容する社会は、もはやないと確信するものである。

 

以上