邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B076) ブログ「邪馬台国・奇跡の解法」について1

このブログ(作成者は故人)は、例えば范曄の編纂経緯や取組み姿勢等に関する考察などが非常に的確で参考になるので、メモとして残しておきます。

なお、最終的な推測は当方とは真逆になっていたりします(今回の引用部分に対する当方見解は、引用の最後に「当方注」として付加)。

 

邪馬台国・奇跡の解法」

2013-11-04 ●トップページ

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後漢書に関する記事の前半部を引用します。(赤字化は当方実施)

付記3・『後漢書』倭伝の検証

---引用開始---

●正史『後漢書』の成立過程
 南朝宋代の430~440年ごろ、宣城太守に左遷された范曄が、魏代を含む歴史家たちが先行して編纂した複数の『後漢書』を資料として整理編纂した。これが正史『後漢書』である。編纂者の范曄は、魏朝が禅譲で引き継いだ後漢代の歴史記録によらず、主に先行して書かれた歴史書を頼りに編纂した。宋書・范曄伝にも、范曄が『後漢書』を編纂した経緯が書いてある。
 「曄を宣城太守に左遷す。志を得ずして、乃ち衆家の後漢書を刪(さん)して、一家の作と為す」。
 ※衆家=多くの歴史家
 ※刪(さん):文章をけずり改める。整理・取捨して選定する。
 『范曄伝』にいう「乃ち衆家の後漢書を刪して」はまさに、「先行する歴史家たちの『後漢書』を整理した」という意味である。ここでは、范曄が後漢代の史官たちの手になる記録文書によらず、先行する『後漢書』を整理してまとめたにすぎないという事実を確認しておきたい。

●正史『後漢書』の編纂実態
 中国全国に配置された無数の史官たちが記録したその王朝の「いま」は、王朝政府の記録文書管轄官庁に集められ、政府の厳重な文書金庫に収められ保管される。これが、滅びる時に禅譲の一環として新しい王朝に継承され、そこで歴史書が編纂される。
 正史編纂の原則手順からいえば、後漢朝の歴史書禅譲を受けた魏王朝下で編まれ、魏代の歴史書禅譲を受けた晋王朝下で編まれるはずだった。たしかに、『後漢書』と名のつく歴史書は複数あったが、編纂のタイミングが遅れたためか、魏王朝は「正史を持たない正統王朝」という異質な現象が起きてしまった。晋代になり、晋王朝下で陳寿が魏・呉・蜀三国の歴史書三国志』を整った紀伝体で編み、これが正史として採用される。(280年ごろ完成)。正史『後漢書』は依然としてないままである。

 南朝宋代になって、(430~440年ごろ)宣城太守に赴任した范曄が、魏代を含む歴史家たちが先行して編纂した複数の『後漢書』を資料として整理編纂した。これが正史『後漢書』である。編纂者の范曄は、魏朝が禅譲で引き継いだ後漢代の歴史記録によらず、主に先行して書かれた歴史書を頼りに編纂した。かくいう理由はこうである。
◆魏朝が禅譲で受けたはずの後漢時代の歴史記録が、どれが正統王朝かも判然としない長い混乱と戦乱をくぐり抜けて、宋朝の文書金庫に継承されていた可能性は極めて少ない。
◆万一の可能性であったとして、儀礼破りの不手際があって宣城太守に左遷された范曄に、政府の金庫から膨大な記録資料を宣城へ持ち出すことが許された可能性はない。なぜならば、彼は『後漢書』を任された立場ではないし、太守という職責があった人物だからである。
◆『宋書』范曄伝によると、彼が郡太守職にあったのは「数年間」とある。『後漢書』編纂に着手してから完成までの期間はさらに短いはずだが、太守職の合い間にやったわりには短期間で完成しているようだから、一層、先行書だけを参考に整理した疑いが濃くなる。
◆范曄の手になるのは本紀と列伝のみで、のちに南朝梁の劉昭が東晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。(現存するのは北宋時代の版本に元づくものである)。
◆誰の目にも明らかなことだが、『後漢書東夷伝を担当したのは歴史文筆のイロハを習得した人間ではなく、范曄が助手か部下に書かせた節がある。とくに、東夷伝の中でも倭伝は記録内容のデキが悪いが、その主な原因は先行書の誤読に起因している。

 先に、范曄が資料にしたと思われる後漢代を書いた主な先行歴史書を提示したが、謝承の『後漢書』が東夷について少し触れていただけで、華キョウの『後漢書』、謝沈の『後漢書』、袁山松の『後漢書』 、司馬彪の『続漢書』、薛瑩の『後漢記』のいずれも東夷伝はなかった。このことは、後漢朝が東夷諸国に関する詳しい資料も情報も握っていなかった証拠であり、正史『後漢書』の東夷諸国の記録が『三国志東夷伝からの転用であることが鮮明になる。

●『後漢書』倭伝独自の記録について
 倭国に関する記録が見られるのは『後漢記』校注の光武帝紀と安帝紀で、これは正史『後漢書』の帝紀と共通する。この情報は、帝紀に記録する資料として朝貢受け入れ管轄部署の記録にあったものと思われる。

光武帝紀「建武中元2年春正月丁丑、倭奴国王遣使奉献」『後漢記』校注
 (建武中元2年春正月、東夷倭奴国王遣使奉献)『後漢書帝紀
◆安帝紀「永初元年10月、倭国遣使奉献」『後漢記』校注
 (永初元年冬10月、倭国遣使奉献)『後漢書帝紀

 この57年の倭奴国王の朝賀と107年の倭国王帥升の朝献記録は、『後漢書』倭伝独自の記録としていわれる。これは、『倭人伝』から引いた記録ではないという意味での『後漢書』倭伝独自の記録である。決して『後漢書』倭伝担当者が独自の記録資料から引いて記録したというのではない。
 この記録もまた、先行するいずれかの『後漢書』から引いたものと私はみている。数多の正史がそうであるように、藩外の異民族の朝貢は化外慕礼として帝紀に記録される。これらの資料は当然ながら朝貢窓口官庁が聞き取り調査結果などを含めて記録したもので、帝紀の資料として保管されていたものと思われる。
 すなわち、朝貢窓口官庁が記録した57年の倭奴国王の朝賀と107年の倭国王帥升の朝献記録は、これらの先行書に書かれていて、正史『後漢書』がそれを帝紀と倭伝に振り分けて書いたにすぎないと私はみている。范曄の他の正史の編み方とは異質ともいえる後漢書』編纂の状況からみて、彼が歴史記録原本をみてゼロから組み立てた可能性は皆無に近いといえる。「少人数かつ片手間にやれる程度の作業実態」は推して知るべしである。
 有名無実だった後漢末期に卑弥呼が朝献した史実はないし、後漢朝が卑弥呼倭王と承認した事実もない。なのに、なぜ卑弥呼のことを知ることになったのか。このことを考えれば、すべてが一つに集約することになる。史書としての原則論からいえば、『後漢書』に東夷伝という伝があってはならなかった。というのも、魏代の歴史記録(に基づく歴史)を『後漢書東夷伝に書いたことは、魏代の歴史を後漢代の歴史として書いた理屈になるからである。これは厳しくいえば、レッドカードもののルール破りである。どうしても掲載したければ「『三国志』にいう」ということわりを入れるべきだったのである。

(当方注①:そのような「レッドカードもののルール破り」を有能な范曄がやった、と決めつけてしまったところに、根本的なボタンの掛け違いが発生したと考えられるでしょう…実際には范曄はそのようなことをやっていないというのが当方推察です)

 

前半部の引用以上