邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

2023-06-01から1ヶ月間の記事一覧

(B082) 三韓の「弁辰」と「弁韓」の表記

hyenaさんから、以下の情報を教えて頂きました。 ■『後漢書集解』韓伝弁辰 【王會汾曰案晉梁二書皆作弁韓當從改下云弁辰在辰韓之南弁辰亦弁韓之訛惠棟曰魏志作弁韓】 読み下し 〔集解〕王會汾曰く、案ずるに晉梁二書(晋書、梁書)は皆弁韓に作る。當(まさ)に…

(B081) 『太平御覧』の韓伝「弁韓表記」

『太平御覧』の「三韓」で気が付いたことがありました。 「《後漢書》曰」としている箇所で、実際の范書と太平御覧、及び魏志の比較 ◆『後漢書』:韓有三種:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁辰 ◆『太平御覧』:韓有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓 ◆『魏志』…

(B080) 華嶠「漢後書」検討 「四夷伝について」

華嶠書における「四夷伝」を検証するために『八家後漢書輯注』で逸文調査しました。 そうしたら、「哀牢」と「南匈奴」がありました。 范書と東観漢記を加えて比較表にしてみました。 但し「哀牢」は『東観漢記校注』には無く、『太平御覧』所引きの《九州記…

(B079) 「後漢書解題」(吉川忠夫氏・渡邊義浩氏)における「華嶠書」への言及

【吉川忠夫氏見解】 ①范書の最も基本な的材料は「東観漢記」で、李賢注が説明している。 ②范書が帝紀の後に皇后紀を立てているのは、明らかに華嶠書にならっているに違いない。 ③華嶠書の論と范書の論が一致するものがある。 →これについては、当方も独立に…

(B078) ブログ「邪馬台国・奇跡の解法」について3

---引用開始--- 『後漢書』東夷伝の中でもとくに『倭伝』はデキが悪く、范曄が手がけたと思われる本紀や主要な列伝とは雲泥の差がある。『後漢書』東夷伝を担当したのは歴史文筆の基本を習熟した人間ではなく、范曄が助手か部下に書かせた節がある。そのデキ…

(B077) ブログ「邪馬台国・奇跡の解法」について2

前回記事の続きでブログ引用を続けます(赤字化は当方実施)。 ●『後漢書』東夷伝序文の誤読 『後漢書』東夷伝は、倭伝だけではなく東夷伝の序文から誤字・誤読・無知ぶりを露呈しているが、一事が万事この調子であることがお分かりいただけるはずである。◆…

(B076) ブログ「邪馬台国・奇跡の解法」について1

このブログ(作成者は故人)は、例えば范曄の編纂経緯や取組み姿勢等に関する考察などが非常に的確で参考になるので、メモとして残しておきます。 なお、最終的な推測は当方とは真逆になっていたりします(今回の引用部分に対する当方見解は、引用の最後に「…

(B075) 後漢書の「通説」について再確認1

「後漢書は魏志に依拠している」という「通説」について、改めて過去の専門家の認識を調査しました。 その中で本記事では「三木太郎」氏の論考「中国文献上の倭国」に記された「後漢書」についての所見をご紹介。 当方感想を先に述べておきますと、「呆れ返…

(B074) 「真珠」「真朱」「白珠」 について(暫定)

魏志倭人伝と後漢書倭伝の特産品に関して「珠」を見てみると、 ◆魏志倭人伝:「真珠」2箇所・「白珠」1箇所 ◆後漢書:「白珠」1箇所 ⇒これは重要に思えて来ましたので検討。 ◆魏志倭人伝 (1)特産品:出真珠、青玉。其山有丹,其木有柟、杼、・・・ →この「真…

(B073) 魏志倭人伝と「魏使者の報告」について

前回記事で久米雅雄氏の説を検討しましたが、著書の一節に以下の記述が有ります。 <「魏使が不彌国以遠には足を伸ばさなかった、或いは伸ばせなかった」> →これに対する当方見解は以下です ●魏使者: 魏の景初年間以降に、魏使者「梯儁」と軍事顧問団?「…

(B072) 久米雅雄「新邪馬台国論ー女王の鬼道と征服戦争ー」・・・「二王朝並立」論

「久米雅雄」氏の説についても調べてみました。 著書:「新邪馬台国論ーー女王の鬼道と征服戦争--」 (歴史における政治と民衆 北山茂夫追悼日本史学論集 日本史論叢会) →国会図書館がデジタル化を始めており、これも含まれていました。 利用者登録は必要…

(B072) 「魏志依拠」の通説崩壊と吉野ヶ里

吉野ヶ里で新発見が有りました。 今後の詳細調査でどのように展開するかはまだ分かりませんが、発見に至る前の5月初めに倭面土国と九州の地名を結び付けた記事が出ていました。 中国歴史書に登場、最初の日本人「帥升」 弥生時代の吉野ケ里の王か 邪馬台国論…

(B071) 白鳥庫吉「倭女王卑彌呼考」の疑問点

「内藤湖南」氏と「白鳥庫吉」氏に関する解説例。 <邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、内藤湖南は畿内説を主張し、激しい論争を戦わせた。「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と称された> →この両…

(B070) 内藤湖南「卑弥呼考」の疑問点2

前回記事に引き続き、「卑弥呼考」の検討です。 ✖⑥湖南氏の范曄に対する評価が後段になるほど酷い →「卑弥呼考」より引用 ”後漢書には、 建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。 安帝永初元年。倭國王帥升獻生口百六十…

(B069) 内藤湖南「卑弥呼考」の疑問点

当ブログの今までの検証を纏めてみるために、「邪馬台国論議」を遡って考えてみていたところ、重大そうな論点に行き当たりました。 それは、【近代の「邪馬台国論議」の嚆矢となったと思われる内藤湖南氏の論考「卑弥呼考」の記述に複数の大きな疑問がある】…