邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B072) 久米雅雄「新邪馬台国論ー女王の鬼道と征服戦争ー」・・・「二王朝並立」論

「久米雅雄」氏の説についても調べてみました。

著書:「新邪馬台国論ーー女王の鬼道と征服戦争--」

(歴史における政治と民衆 北山茂夫追悼日本史学論集 日本史論叢会)

国会図書館がデジタル化を始めており、これも含まれていました。

利用者登録は必要ですが、無料で使いやすくなっています。

(トップ画面)国立国会図書館デジタルコレクション

 

同書から引用します。(長いですが当方メモ用を兼ねています、以下同様)

<狗奴国を菊池彦との関連で肥後国菊池郡にあてることが正しいとすれば、女王国狗奴国間の「素より和せず」にあらわされた年 来の仇敵関係は、先程の女王国・伊都国間の関係と同様、地理的近接性を前提としているが、女王国を畿内大和に設定するならば、この前提が崩されるばかりか、狗奴国は「女王国より以北」の国になってしまって、「魏略」逸文の「女。 王之南、又有狗奴国・・」の記述に反してしまうこと、そして同史料の如く、女王国を畿内大和に設定した場合、東へ海を渡って千里のところにいわゆる「倭種」の国に相当するものを見いだすことができないこと等が「女王国・畿内大和説」の内包する諸矛盾である。 このように「女王国」と「邪馬台国」とを同一視してしまう場合には、これ程の諸矛盾が生じてくるわけであるから、従来当然とされてきた「女王国=邪馬台国」 同一説なる図式は、ここにおいて根本的に修正を必要とされることになるのである。

かつて橋本増吉氏が「不彌から邪馬臺までの里程は、當然一千三百餘里なることは、明らかであ るに拘らず、何故かそれを里程では記さないで、日程で記されて居」ると述べ、また直木孝次郎氏が「実距離が(伊 都国から) 一五〇〇里とわかっているのなら、何故にそう明記しなかったか」と疑問を発した邪馬台国問題の根本的難点も、実は、陳寿の意図にそって「筑紫女王国」と「畿内邪馬台国」とを正しく全く別の二国として把おら)え、 「筑紫女 「王国」までの道里は里数で、他方、それより先の「畿内邪馬台国」までの行程は日数で記録されたと考えるならば、魏志倭人伝」の記録は矛盾なく、そして筆者陳寿の史家としての力量を決して不当におとしめることなく読むこと ができるであろう。今まで述べてきたところを図化してみると、恐らく陳寿倭国観は、第1図のようなものであっ たにちがいない。なお、陳寿の記載に関し、対馬・一支・末盧・伊都・奴・不彌国あたりまでは、戸数・道里をも含 めて比較的詳細に描かれている一方で、不彌国以遠の情報が、たとえば筑紫女王国にむかって方位・里数が明示されず、畿内邪馬台国にむかって方位が南と誤記されるというようにきわめて粗略になっている理由については、私はそれを、倭国へ到来の際、魏使が不彌国以遠には足を伸ばさなかった、或いは伸ばせなかったことの明白な証左であると同時に、国家の機密や中枢に関わる部分については、倭人が国土防衛上、殆んど、積極的に情報を提供しなかったためであろうと考えている。

・・・

「筑紫女王国」 と 「畿内邪馬台国」とはそれぞれ別の異った二国であり、またそのように把えないかぎ 「魏志倭人伝」を矛盾なく読むことはできない>

→「魏使が不彌国以遠には足を伸ばさなかった、或いは伸ばせなかった」などの見解は個人的に賛同できます。

これは「倭人伝の内容が魏使者の報告なら、もっと臨場感?が感じられるはずでは?」という当初からの個人的疑問があるためです。

具体例としては、対馬壱岐の描写は的確なのに対して、都に近い「投馬国」や都の「邪馬台国」の状況描写がゼロなのは、余りにも本末転倒で、文章に練達した役人なども同行させたのは確実な魏使者の報告なら有り得ないと思います。

しかし一方で、「魏朝としては異例の厚遇とさえ思える、海路も使って東の果てまでわざわざ送った魏使者が、親魏倭王卑弥呼に会わないで帰ることが魏朝で許容されたか?」という基本的疑問もあります。

それで、魏使者は都まで行って、詳しく的確な報告書も有ったが、何らかの理由で肝心の部分を陳寿が使用しなかった可能性を考える必要も有るかも知れません。

また「張政」らも行っており、「卑弥呼の墓」の記述はこちらの報告を使用した可能性も。

なお、卑弥呼の宮殿描写は魏志後漢書に、よく似た描写が有りますが、時代が離れているのに同様というのも大いに違和感が有ります。

これらの基本的課題がある中で、久米氏が「国家の機密や中枢に関わる部分については、倭人が国土防衛上、積極的に情報を提供しなかったためであろう」などの推測(憶測)にまで飛ばして行くのは、当方の論理構築手順とは異なって来ます。

まずは、「筑紫女王国にむかって方位・里数が明示されず、畿内邪馬台国にむかって方位が南と誤記」という久米氏が指摘する課題のようなことが、なぜ起きたのか?を考える必要があると思います。

それには「後漢書には元々行程の記述が無い」という点に目を向けるべきと考えます。

ただし、久米氏も「後漢書」に着眼している点が有って、前掲書に以下の記述も有ります。

<「魏志倭人伝」が、それよりも後の「後漢書倭伝」中の「其大倭王邪馬台国」なる記事や「梁書倭伝」中の「邪馬台国、即倭王之所居」なる記事などとは異って、「邪馬台国、女王之所居」と記さなかった事実も、実は女王は「都つくり」をした後も、ひき続き「筑紫女王国」に留まって「畿内邪馬台国」には遷(うつ)らず、かわりに畿内邪馬台国」での統治は「魏志倭人伝」が「有男弟、佐治国」と記すように卑彌呼の「男弟」に委任していたために、卑彌呼が畿内邪馬台国に常居することはなかったことの証左であろうと把えている>

→しかし、これに関しても、魏志倭人伝には「有男弟佐治國」があって後漢書には無いことなどを久米氏はどう考えておられたか。

魏志倭人伝

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。鬼道、能惑衆。年已長大無夫壻有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。

後漢書倭伝

桓、靈閒,倭國大亂,更相攻伐,歷年無主。有一女子名曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道能以妖惑眾,於是共立為王。侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飲食,傳辭語。居處宮室樓觀城柵,皆持兵守衛。法俗嚴峻。

➡当方の私的推測としては、まずA・Bともに「一女子」は共通で、「共立時には卑弥呼は強大な権威を持っていなかった」状況が考えられると思います。

そこから卑弥呼の権威が上がって行くにつれて、男弟にも影響が及んで、男弟が政治権力を持つようになるまでは時間がかかります。

ちなみに共立時には、共立を決めた有力部族を率いる実力者(多分長老)たちが実権を持っていたのは当然で、そうでないと治められません。

そこから「男弟佐治國」の状態になるまで、どれぐらいの時間がかかったか。

また、共立時は「一女子」としたら、「婢千人」になるまではどのような経過をたどったか。

この辺は確たる証拠は出て来ないでしょうから、想像で考えるより有りません。

それでも、「魏志:年已長大、後漢書年長不嫁の「長大と年長」の違いをどう捉えるか。「魏志無夫壻後漢書不嫁」の違いも有ります。

結果的に、魏志後漢書の関係性が重要になります。

久米氏は以下の注意も書いています。

P235~<わたくし自身は、過去においていわゆる「邪馬台国所在地論争」なるものが生じ、問題がここまで複雑化し、そし 解決の糸口さえ見つからぬ、混迷と多岐亡羊の感の中に研究者が身をおいている主な理由は、本来、「魏志倭人伝」の筆者自身が非常に簡明な論旨で組みたてている記事内容を、後世の学者が、言わば一種の早呑込によって、必要以上に複雑化してしまったためではないかと考えている。端的に言えば、その一種の早呑込とは「女王国」と「邪馬台「国」との同一視もしくはその混同のことを意味しており、 以下、この点を「魏志倭人伝」にそって検討していくことにする。>

➡この「早呑込」の最たるものが、邪馬台国論議においては「後漢書魏志依拠」の通説でしょう。

久米氏は「卑弥呼の宗教性・鏡や銅鐸の祭祀・大乱と高地性集落」など多くの論点で、参考になる重要な考察が多いと感じました。

久米氏が「後漢書魏志非依拠」という真相を認識していたら、更なる素晴らしい成果が期待できたと思います。

それでwikiを見たら、久米氏は1948年生で多分まだまだ現役でしょう。

伝える手段があれば良いのですが。

また、今後の研究者のためにも、魏志依拠の通説打破は必須になってきます。

(久米氏自身は今回取り上げた著書の中では、明確に通説支持かどうかは書いてないようですが、文脈的には通説の立場のように推察できました)

以上

[付記]

久米雅雄氏は「新邪馬台国論ーー女王の鬼道と征服戦争--」の「おわりに」で、自説のまとめを書かれているので、参考メモとして付記しておきます。

<本稿では、二世紀後半の「倭国大乱」に焦点をあて、その戦争が支配者にとって、また民衆にとって、いっ たい何であったのかを考察してきた。 先ず前半部においては考古学的な見地から問題をみつめ、 (1)弥生時代中~後期における軍事的高地性集落の広汎な分布域と、続く三角縁神獣鏡等を伴う「国家的身分秩序」の反映としての前期古式古墳のほぼ前者に重なるかたちでの広況な分布域を見通す時、「倭国大乱」は文字通り汎日本的な規模での大乱として把えられ、局地説は成立しがたく思われること、(2)鏡・玉・剣の継承と墓制の連続性という点と、畿内における銅鐸祭祀の急速な終焉およびそれに伴う北九州銅鏡祭祀圏の東方拡大という普遍的現象からみる時、余程、自己投棄的な異文化吸収説の立場を想定しない限り、西征説は認めたがたく、むしろ東征説の側にこそ無理のない論理性あるいは蓋然性をみとめうること、続いて後半部では、特に「魏志倭人伝」や他の中国古文献の読法を再検討することによって (3)従来、単純に同一視されてきた「女王国」と「邪馬台国」とは、実は互いに異なる別々の二国であり、魏志倭 「人伝」の内包する地理的諸条件のすべてを同時に満足させる解としては、「女王国」を筑紫の地(伊都国の南・狗奴国 の北倭種の国の西方)に、「邪馬台国」を畿内大和の地に設定するしかなく同一説では幾つかの矛盾が生じてしまう)、 もしこの考説が正しいとすれば「邪馬臺国、女王之所都」なる一文は「畿内邪馬台国、それは筑紫の女王が都を定めた所である」の意であって、それは「倭国大乱」が、侵略的な「東征戦争」という図式を有していたことの明確な証左となりえること、また(4)その非惨な侵略戦争がひきおこされた要因は、内に外に幾つか挙げることができるが、中でも特に思想的背景として看過できないものは、卑彌呼の「鬼道」(それは張魯の「鬼道」 と類似して、道教系 である)に拠って繰りかえしくりかえし喧伝されたと思われる、民衆には「不老長生」・「長宜子孫」・「延年益寿」・「神仙辟邪」といった個人的願望の達成を 「東方楽土」で約すかたちでの、言わば「個人意志」の達成がそのまま「階級意志」あるいは「国家意志」の実現につながるような図式での「西王母東王父」構想の実現であったと考えられること、(5)東征戦争終結後、卑彌呼は筑紫女王国に留まり、男弟を畿内邪馬台国にすえることによって、民衆の期待したものとは全く異質の「専制国家」を志向しはじめるが、景初三年(二三九年)に魏へ朝貢し、翌正始元年(二四〇 年)に「銅鏡百枚」を舶載し、もって国内における「国家的身分秩序」をととのえようとしたその矢先に、正始八年 (二四七年)の対狗奴国戦にまきこまれ、その直後に急死してしまったこと、 (6)女王卑彌呼の急死によって、「親魏倭王」の王位継承に関する問題と東西の支配権もしくは支配方式をめぐっての問題が顕在化することになり、十三歳の少女臺與を擁立する筑紫女王国派と卑彌呼男弟系の畿内邪馬台国派との間に争乱がおき、一応は女王国派の優位のうちに事態は収拾されたこと、(7)但し、この旧来の国家体制存続の試みは、新女王のカリスマ性の欠如とも相俟って倭国の内治をよくせず、結局、西晋の泰始二年(二六六年)には、両者の妥協のもとに、筑紫女王国の女王と畿内邪馬台国の男王とが「並びて中国の命を受く」という、すなわち「倭国」にとっては異常な、「二王朝並立」の新事態が 生じていたことなどを見てきた次第である。 本稿では、専ら、考古学による発掘調査成果と「魏志倭人伝」を中心とする中国史書類との対比・検討によって、二世紀後半の「倭国大乱」の時期から三世紀後半の「二王朝並立」に至るまでの約一世紀間について論じてきたわけであるが、続く三世紀中葉以後の歴史的展開については、「記紀」 批判の問題をも含め、今後の研究課題と致したい。>

久米雅雄 - Wikipediaによると同氏は1948年生。

「階級意志」「国家的身分秩序」などの言葉が出て来て、取っ掛かりの実証的なアプローチからすると、考察が途中で飛んでいる感が有るのは年代的特性???

社会学的アプローチも否定する積りはないですが、その前に実証的アプローチを突き詰めれば、「魏志非依拠」という真実に突き当たりそうな。まず、そちらを充分検討して、基本的前提を固めてから社会学的考察に行くのが適切では。)

以上