邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B070) 内藤湖南「卑弥呼考」の疑問点2

前回記事に引き続き、「卑弥呼考」の検討です。

 

湖南氏の范曄に対する評価が後段になるほど酷い

→「卑弥呼考」より引用

後漢書には、
 建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬

 安帝永初元年。倭國王帥升獻生口百六十人。願請見。

 桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑彌呼。
に作れるが、隋書、通典は全く後漢書に據り、北史は桓靈間を靈帝光和中に作り、餘は後漢書に同じ、梁書は漢靈帝光和中に作ることは北史と同じく、歴年の下に無主二字なきことは三國志に同じ、宋本御覽は三國志を引きて住七八十年を靈帝光和中に作れり。因て思ふに魏略の原文は建武中元より願請見に至るまでは、後漢書に同じく、次に漢靈帝光和中とありて倭國亂相攻伐歴年以下は三國志に同じかりしならん。三國志が本亦以男子爲王といへるは、中元、永初二次朝貢せる者が男王なりしを以て、略してかく改めたるなるべく、又永初より光和までを算して住七八十年の句を作りしなるべし。靈帝光和中を桓靈間と改めたるは、改刪を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり。

改刪を好める范曄の私意」とか、「全く范曄の妄改の結果」とか、「湖南氏の妄想」と言う方が適切と思える書き方(苦笑)

後の人が湖南氏のこの論考に乗ってしまった感が有ります。

卑弥呼考」には華嶠『漢後書』の話が無い

→華嶠『漢後書』が全く出て来ません。

しかし、李賢注の後漢書は読んでいたはずで、その中で当ブログで示したように李賢注で「」が複数あります。(単に「華嶠書曰:〇〇〇・・・」はもっと沢山あります)

湖南氏や、その後の「魏志依拠」の通説に従ってきた漢文が読める専門家らは、これらを見逃したたのでしょうか・・・???

(B067)范曄『後漢書』の華嶠『漢後書』依拠(「論」の例)

 

魏略の書法」などと曖昧な見立てを述べて、魏略(魏志)に57年107年遣使の話が無いことの説明完了としてしまっている

→「卑弥呼考」引用

三國志の據るべく、後漢書の據(よ)るに足らざることは、益※(二の字点、1-2-22)明白なり。
但(た)だ此に辯(べん)ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く

建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年。倭國王帥升等獻生口百六十人。願請見。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑彌呼。云々

此の漢代に於(おけ)る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪(けず)り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴(ほてつ)して、再び舊(旧)觀に還せるによりて證明せられたれば後漢書の此條は、三國志には據(よ)らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。

倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當(当)なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。”

→「こゝに解決を告げたるなり。」などと高らかに宣言してしまっています(苦笑)

前回記事で「范曄がそこまでするはずもない」ということを書きました。

それは各伝の文字数比較からも言えます。

(B031)東夷伝比較「濊伝」

→倭伝は、四夷伝(蛮夷伝)中でも約1.2%しかありません。

それに対して范曄が巧妙な刪潤を仕掛けて、しかも能文家なのに「色々ボロを出している」などと想定するのは、中国のことわざで言えば「夜郎自大」レベルと感じます。

「我田引水」も大概にしてくださいと言いたくなります(再度苦笑)

湖南氏は、<後漢書魏志に無い部分は范曄が『漢書』などの「古書を参照した」という見方

→これが「卑弥呼考」における当方としての最大の発見でした。

特に当ブログで着目している「鉄鏃」有無の箇所が取り上げられてます。

 ”(魏志に)夏后少康之子。封於會稽。斷髮文身。避蛟龍之害。
とあるは、漢書地理志に粤地の事を記せる文を襲用し、
作衣如單被。穿其中央。貫頭衣之。種禾稻紵麻。蠶桑緝績。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。(注:「鉄鏃」が後漢書には無く魏志には有り)
とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。最後の參問云々も亦然りとす。”

後漢朝は約200年の歴史を持ち、その間に倭を含む東夷などの蛮夷の朝貢が繰り返されおり、その記録を魏朝の史官らが残していたのは当然の話。

つまり、前漢書の記述は有っても、それを後漢朝の史官らが吟味し修整していたと考えるのが適切になります。

例えば「鏃」の件でも、「漢書地理志 粤地」での該当箇所の記述は以下です。

兵則矛、盾、,木弓,竹矢,或骨為鏃>

一方後漢書は以下。

其兵有矛、楯、木弓,竹矢或以骨為鏃。

→「刀」と「弩」が後漢書では無くなっています。

特に「弩」は倭では使用していなかったと考えられ、後漢朝の史官らが新しく得られた情報に基づいて、適切な修整を行っていたと推測できます。

これが「後漢代原史料」相当(主に「東観漢記」か)になって、その後「華嶠書」⇒「袁宏書」・「范書」のように参照されていった流れと思います。

それにも関わらず、湖南氏や、それ以外でも、「後漢書魏志に無い部分は范曄が前漢書などの古書を直接参照した」とする見解があります。

後漢朝の史官らの働きを無視した無理筋の推測と言わざるを得ません。

ただし困ったことに、湖南氏と並んで明治の邪馬台国論議の二大巨頭と言えるであろう「白鳥庫吉」氏も、「後漢書魏志依拠」の見方。

論争の両陣営がともに根本的な見立てを間違っていました。

これでは混迷するのも、やむを得ないことになります。

次回の記事では、「白鳥庫吉」氏を取り上げてみます(湖南氏もまだまだ有るのですが)。

以上

 

 

 

 

 

以上