「後漢書は魏志に依拠している」という「通説」について、改めて過去の専門家の認識を調査しました。
その中で本記事では「三木太郎」氏の論考「中国文献上の倭国」に記された「後漢書」についての所見をご紹介。
当方感想を先に述べておきますと、「呆れ返る」というぐらいの内容で、余りにも真相が掴めていなさすぎます。
ただし、その中で以下については今後も検討予定です。
● 編修時の五世紀という時代的影響を受けている
→范曄は、韓伝においては「百済」の名称を付け加えており、倭伝についても「どの部分が五世紀情報か」は詳細な検証が必要と思われます
●(范書の)文章のすぐれていることまでが、史料的価値をマイナスにしている(三品彰英氏)
→「魏志倭人伝を参照する際に内容や文章を整理したから後漢書倭伝は整然としている」という趣旨になろうかと思いますが、端的に言って「本末転倒」の見方の気がします。
まず、魏志倭人伝の方が、複数史書の接合などで、文章が崩れています。
◆例
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國。於國中、有如刺史。王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露。傳送文書、賜遺之物、詣女王、不得差錯。下戶與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭說事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰「噫」比如然諾。
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年。
→「其」國が、どの国を指すか?が、この文章では特定困難なようになってしまっています。もし「倭」国を指すとするならば、前方には「女王国」が有りますが、「女王国」と「其」の間には「伊都国」があります(「諸韓國」なども有りますが、「其」が指し示す先がもっと分かりにくくなるだけなので触れないことにします)。
本来このような文章は✖(バツ)です。
そして、このような細かいところまで、范曄が気を付けて修整したとは到底思えません(范曄は原資料を余り改変せず使用したと推測すると、原史料が整然としていれば、引用部分も基本的にそうなるでしょう)
但し、決めつける積りは有りませんので、「後漢書は魏志を参照していない」という課題提起を行って、范曄と陳寿の文章の捉え方などでも論議が起きることを期待している次第です。
以下は三木氏当該論考の最初の部分の引用です。
---中国文献上の倭国 三木太郎---
・・・
注(1) 『後漢書』(東夷伝倭条)(以下「倭伝』とする)の記載が、 『魏志』 (東夷伝倭人条)(以下『倭人伝』とする)に影響さ れていることはすでに定説であるが、同時に、その『倭伝』が、 編修時の五世紀という時代的影響を受けていることも疑いな い。前者の事例については、その一部をすでに拙稿「『後漢書』 記載の後漢交渉記事について」 (『歴史教育』 一六五)などでも指摘してきたが、後者については、かつて三品彰英氏は「邪馬台国の位置」(『学芸』 三七)の中で『倭伝』に見える 邪馬台国が大和朝廷の前身として書き表わされていることを指摘しているし、上田正昭氏もこの方向から、結論として「『中国史書』の多くが、畿内大和説をとったことは」、「中国側のうけとめ方の一端を如実に示すものである。」(同氏『日本古 代国家成立史の研究』)とされている。筆者もまたこの見解を妥当としてきた(拙稿 「再び倭について」『日本歴史』 二 一)。最近三品氏は、さらに『倭伝』の史料的価値について、「由来 『後漢書』の倭人伝は、『魏志』に拠りながら、勝手な 改作を加えているというので甚だ評判の悪い史籍であり、その文章のすぐれていることまでが、史料的価値をマイナスにしているのである。しかし(中略)今も彼を『志』の読解者ないしは考証者として見るならば、最初の研究書にして、かつ重要問題を提案したという点で、甚だ価値の高い典籍である。」(同氏『邪馬台国研究総覧』)と新しい評価を与えているが、 正に卓見といえる。
---引用ここまで---
以下は原文です。
→< しかし(中略)今もし彼を『魏志』の読解者ないしは考証者として見るならば、最初の研究書にして、かつ重要問題を提案したという点で、甚だ価値の高い典籍である。」(三品彰英氏『邪馬台国研究総覧』)と新しい評価を与えているが、 正に卓見といえる>
➡上記「しかし」の前段が、<『魏志』に拠りながら、勝手な 改作を加えて>などと、酷すぎてフォローにもなってないですし(苦笑)、「范曄が魏志倭人伝の考証者」と見るなどは事実誤認も甚だしいと言わざるを得ません。
以上