◆桂川氏の見解
→『後漢書』が魏代の史料を取り上げたと見ておられます。
-----桂川氏書籍引用開始-----
(『後漢書』倭伝読まずして邪馬台国を語るな!Kindle版)
7勝手に付け加えられた情報ではない
・・・『後漢書』がここで取り上げた資料は魏時代の資料である。だがあえて魏時代の資料を取り上げたのは、そこに後漢時代の事が書かれていたからである。建武中元二年と安帝永初元年の記事は、後漢の権威がはるか東方の小国まで及んでいた事を述べた記事である。魏の時代の資料であっても取り上げる価値が有ったのである。
-----引用終了-----
➡当方は、范曄は「魏代史料」を使用していないと考えます。
ただし、非常に古い話で范曄に聞くわけにもいかないので、魏代史料(主に魏志か)を完全に参照していないと言い切るのは困難な面がありますが、基本的には魏代史料は参照しなかったと推察。
魏代史料参照では、魏代と後漢代の切り分けが必要で、時代考証を行うことになります。5世紀の范曄が、四夷伝の中でも約1.3%しかない倭伝に、そのような手間をかけたと考える合理的理由は思い浮かびません。
後漢書が「後漢代原史料」を参照していたと考える間接的証拠を紹介します。
桂川氏は以下のように並べておられます。
(魏志 )自郡至女王国万二千余里
➡「魏志依拠」説では、「范曄が魏志を見て、郡(=帯方郡)を楽浪郡に変更した」と考えてしまっている箇所です。
しかし、魏志では「自・至」を使っているのに対し、後漢書では「徼去」になっています。
「徼」についてはhyenaさんの調査が有ります。
『後漢書』中の用例を拾ったら以下のようになりました。「徼外」は他書にも見えますが、「郡徼」は『清史稿』の1件を除いて全て『後漢書』です。「徼外」も後漢書が最も多い。何かの手がかりに?https://t.co/wS7q242fDt pic.twitter.com/CUjnmawhot— hyena_no_papa (@hyena_no) 2022年5月1日
➡これからすると、後漢書では「郡徼」の方が、他の諸伝の記述と整合性が取れるということになります。
結果的に、「後漢書は元々『徼』が使用されていた原史料を参照していて、『楽浪郡徼』もその流れではないか」と考える方が、魏志から修整したというより自然に思えます。
加えて、魏志の「自郡至女王国」は方向が「帯方郡→女王国」で、一方後漢書は「楽浪郡←其國」であるため、方向性が逆になっています。
また、「徼」は「漢書」でも使われていて、古い表現と考えることが出来そうです。
このように、魏志と後漢書の比較は、桂川氏が類まれなる洞察力で見通しておられる地点から、更に幅広く実証主義に基づいて綿密に対比して行く必要があると考えています。
これも前記事で書いたように、「魏志非依拠」の認識が広まって、多くの人が検討して真実に近づいていくことを期待。
以上