邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B091)桂川氏見解検討6「倭国(大)乱」

桂川氏著書の「倭国乱」の箇所(引用後掲)を見ていたら、魏志倭人伝の「倭国乱」の記述に対する個人的違和感の原因が分かって来ました。

①両書の「倭国(大)乱」の記述の違い

魏志 )倭国乱相攻伐歴年
後漢書)桓霊間倭國大亂更相攻伐歴年無主

魏志倭人伝記述

其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,

③前項②の赤太字部分を①の後漢書記述と置き換えてみる

其國本亦以男子為王,住七八十年,桓霊間倭國大亂,更相攻伐歴年無主,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,

➡これを見た上で、当方違和感と類似の認識がwiki倭国大乱」に有りました。

<男子王
後漢書東夷伝に、永初元年(107年)、倭国王帥升後漢へ使者を出したとあるが、帥升以前に倭国王の存在が史書に見えないことから、中国王朝が公認した初の倭国王帥升だったとし、魏志倭人伝の記述は、帥升に始まる倭国王の系統が70 - 80年存続したことを表す、とする議論がある。これによれば、107年頃から帥升の王統が開始し、70 - 80年後の180年 - 190年頃に王統が断絶したことになる。ただし、魏志倭人伝に見える男子王を帥升に同定することに否定的な意見もある。また桓帝霊帝(146年 - 189年)の倭の大乱から逆算すると66年頃には倭国王が居たこととなり、帥升が初の倭国王だったことに疑問が生じる。

➡結果的に、「魏志非依拠」になると魏志倭人伝の記述は、後漢書の記述は別系統で成立したと認識した上で、再検証が必要ということになるでしょう。

更に、上記wikiに考察が無くて、桂川氏も言及しておられないのですが、「倭面土国」という課題が有ります。hyenaさんの以下の詳細考察で、後漢書の107年遣使の記述は「倭面土国」だった可能性が高いということになります。その場合は、当時の倭の統合状況はどのような形だったのか?という疑問が出て来ます。

魏志依拠」説だと後漢書の記述は論者の考え方次第で、つまみ食い状態になり、「倭面土国ではなく倭国が正しい」という認識(思い込み?)で課題が片付けられがちになります。しかし、「魏志非依拠」になると、このような所も考え直す必要が出て来て影響は大きくなります。

 

西嶋定生説批判 「倭 国 之 極 南 界 也 」及 び「倭 面 土 国 」について by hyenaさん

3. 「倭面土国」について

・・・

西嶋氏は「倭面土国」などという表記は范曄『後漢書』に本来あったものではないとの考えを示しているが、上述のごとく、『通典』東夷諸条にみるかぎり、他の正史と並んで范曄『後漢書』が藍本の一つとして用いられていることは明らかであるから、写本范曄『後漢書』には「倭面土国」あるいは「倭面上国」に類する表記があった可能性は少なくない。
西嶋氏は、王仲殊氏の『通典』「倭面土国」が『翰苑』「倭面上国」の誤引であるとの説に同調して、該書 142 ページ中で、『通典』が『翰苑』を「引用」したという想定を述べているが、そのような実例があるのだろうか。先にも述べたが、私が『通典』東夷についてその出典を調べた所、李賢注范曄『後漢書』を含む正史群であった。『翰苑』が安帝永初元年の「倭面上国」を引文として「後漢書曰」とすること、また間違いなく藍本として李賢注范曄『後漢書』から成文している『通典』「倭条」が「倭面土国」としている事実を最も簡明に説明することのできる想定は、当時流布していた李賢注范曄『後漢書』倭伝中には「倭面土国」に類する表記があったとすること以外にありえない。

 

本記事冒頭で「後掲」とした引用を付けます。

-----「『後漢書』倭伝読まずして邪馬台国を語るな!」引用開始-----

8 倭国乱は王位をめぐる内乱

・・・

魏志 )倭国乱相攻伐歴年
後漢書)桓霊間倭國大亂更相攻伐歴年無主

・・・『後漢書』倭伝は「相攻伐歴年無主」とする。「主」は「王」の書写誤りであろうが「主」でも大きな意味の違いはない。

 

9 邪馬台国の歴史は誰の認識か
・・・
魏志倭人伝』は倭国乱の前に男子の王の時代が70年から80年続いていたとする。この認識も中国王朝の人による認識である。それではこの70年から80年という認識はどのようにして知ったのか。それは安帝永初元年すなわち107年の倭国王がこの国の初代であることを知っていたのである。それでなければ70年から80年男子の王の時代が在ったということを知るすべはない。倭国はこの107年朝貢倭国王の時代に始まったのである。

-----引用終了-----

以上