邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B107) 内藤湖南氏見解「後漢書の遣使記事は魏略に依った」への疑問

内藤湖南氏は「卑弥呼考」で「後漢書倭伝の遣使記事は魏略に依った」との見解を述べています(該当箇所抜粋を後方に添付)。

しかし、後漢書の遣使記事は、倭伝だけでなく本紀にもあります。

それには「月」などの倭伝に無い情報もあります。

魏略には本紀に相当する情報も有ったのでしょうか?

魏略には後漢代情報もありますが、後漢代前半の本紀の内容まで採録していたでしょうか???

それは考えにくいと思われ、「湖南氏の検討不足」と想定するのが妥当ではないかと思えます。

ただし、大家がそのような単純ミスをするか、という違和感もありますが、湖南氏の記述と魏略の事実関係等を率直に見て行くと、湖南氏のミスの可能性大と推察せざるを得ないと思っています。

 

後漢書の遣使記事を付けます。

◆57年遣使

本紀(光武帝紀):(中元)二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。東夷倭奴國王遣使奉獻。

東夷列傳:建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

◆107年遣使

本紀(孝安帝紀):(永初元年)冬十月,倭國遣使奉獻。

東夷列傳:安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。

 

湖南氏見解部分の抜粋添付。

-----内藤湖南卑弥呼考」抜粋-----

一、本文の撰擇

 卑彌呼の記事を載せたる支那史書の中、晉書、北史の如きは、固より後漢書三國志に據りたること疑なければ、此は論を費すことを須ひざれども、後漢書三國志との間に存する異の點に關しては、史家の疑惑を惹く者なくばあらず。三國志は晉代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども、兩書が同一事を記するに當りて、後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば、其の倭國傳の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みし所なりき。此の疑惑を決せんことは、即ち本文撰擇の第一要件なり。

・・・

但だ此に辯ぜざるべからざるは、左の一條なり。曰く

建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年。倭國王帥升等獻生口百六十人。願請見。桓靈間倭國大亂。更相攻伐。歴年無主。有一女子。名曰卑彌呼。云々

 此の漢代に於る朝貢の記事は、三國志には漏れて後漢書にのみ存せり。此だけは三國志の疏奪を范曄が補ひたりとも言ひ得べきに似たれども、飜つて魏略の書法を考ふれば、鮮卑、朝鮮、西戎の各傳、皆秦漢の世の事より詳述せるを、三國志は漢までの記事を剪り去りて、單に三國時代の分だけを存せり。こは裴松之三國志を注せる時、其の剪り去りし魏略の文を補綴して、再び舊觀に還せるによりて證明せられたれば、後漢書の此條は、三國志には據らざりけんも、魏略に據りたるは疑ふべからざるが如し。

附記、此の文中倭國王帥升等とあるを、通典には倭面土地王師升等に作れるにつきて、菅政友氏が考證は、其著漢籍倭人考に見えたり。余も此事につきて考へ得たることあれど、枝葉に渉らんことを恐れて、此には述べず。

 已上綜べて之を攷ふれば、倭國の記事が魏略の文を殆ど其まゝに取り用ひたる三國志に據るの正當なることは知らるべく、本文撰擇の第一要件は、こゝに解決を告げたるなり。

以上

[追記]

湖南氏見解は他にも無理筋が色々あります

例<靈帝光和中を桓靈間と改めたるは、改刪を好める范曄の私意に出でたること明かに、歴年の下に無主の二字を加へたるなどは、全く范曄の妄改の結果と見えたり>

→「靈帝光和中⇒桓靈間」への変更は、どのような効果が有ると湖南氏は見るのでしょうか???

結果的には、湖南氏の方が妄想に見えてしまいます。

追記以上