邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B108) 白鳥庫吉氏見解「”極南界”は范曄の誤解」への疑問

前記事の内藤湖南氏と論争を繰り広げた「白鳥庫吉」氏の見解についても、改めて見てみました。見解が記載されている論文の抜粋を後方に添付します。

 

抜粋でも長く、突っ込みどころと思える箇所が複数あります(苦笑)

その中で一番気になった記述を更に抽出。

魏志』に「次有奴國、此女王境界所盡」とある文面は、必しも之を女王國の極南にありと云ふ意に取るべからざるを、『後漢書』は實に之をかく思惟したるのみならず、この奴國はまた倭國即ち九州全島の極南界にありと誤解せり其徴は同書倭國傳に

建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也

・・・故に范曄は『魏志』載する二ヶ處の奴國を一國と誤り、而も之を女王國の極南界即ち倭國の極南界にありと見たりしなり>

➡白鳥氏は”「倭國之極南界也」は范曄が(誤解による)自分の解釈を付け加えた”と考えているように見えます。

その場合、有名な以下の文章には范曄の創作(「倭國之極南界也」)が入っていることになります。

建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也

→遣使記録に、このような創作を入れたのでしょうか???

実際は、この文章は「倭國之極南界也」までが後漢朝の公式記録に有ったもので、范曄の創作とは思えないと当方は考えます。

つまり、実際に「極南界かどうか」の前に、”後漢朝の公式記録と思えるものに范曄が自らの創作で追加を行ったと考えるかどうか?”が、まず課題になるという想定です。

この点に関する専門家の見解はどうなっているのでしょうね???(今まで「創作」としている見解は、個人ブログ等を含めても見ていません)

 

以下は白鳥氏の当該論文の抜粋です。

-----倭女王卑彌呼考 -----

それ既に里數を以て之を測るも、又日數を以て之を稽ふるも、女王國の位置を的確に知ること能はずとせば、果して如何なる事實をか捉へて此問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通讀玩索し、而して後漸く爰に確乎動かすべからざる三箇の目標を認め得たり。然らば則ち所謂三箇の目標とは何ぞや。

曰く邪馬臺國は不彌國より南方に位すること、

曰く不彌國より女王國に至るには有明の内海を航行せしこと、

曰く女王國の南に狗奴國と稱する大國の存在せしこと即ち是なり。

さて此の中第一、第二の二點は『魏志』の文面を精讀して、忽ち了解せらるるのみならず、先輩已に之を説明したれば、姑く之を措かん。然れども第三點に至りては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにも拘らず、余輩が日本學會に於て之を述べたる時までは、何人も嘗てこゝに思ひ至らざりしが故に、又此點は本論起草の主眼なるが故に、余輩は狗奴國の所在を以て、此問題解決の端緒を開かんとす。

・・・

此の如く從來の學者が狗奴國を九州以外に置きて毫も之を怪まざりしは、『魏志』の本文を精讀せずして、專ら『後漢書』の文面に信頼したるに因るなり。學者若し余輩の言を疑はゞ試に左に引用する『魏志』の本文を熟讀せよ。

自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國、遠絶不可得詳、次有斯馬國、(中略)次有奴國、此女王境界所盡、其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王、(中略)女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種、又有侏儒國、在其南、人長三四尺、去女王四千餘里、又有裸國黒齒國、復在其東南、船行一年可至。

 此の中「女王國東渡海云々」以上の文意を案ずるに、末盧、伊都、奴、不彌、投馬諸國の戸數道程は前文の如く之を略載し得べけれども、其餘の傍國に就いては、詳なること知るべからず。然れども斯馬國以下奴國に至る十七ヶ國ありて、

而して奴國は女王界の盡くる所に位す。

又女王國の南には狗奴國ありて、男子を王とし、女王に屬せず、と云ふ趣に解せらる。されば倭國即ち九州の全部は、女王の所領にあらずして、その南部は狗奴國の版圖に屬せしなり。然るに後漢書』の編者范曄は上段掲載の文面に據り、而も大に之を省略して、左の如き文をなせり。

自女王國東度海千餘里、至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王、自女王國南四千餘里、至朱儒國、人長三四尺、自朱儒東南行船一年、至裸國黒齒國、使驛所傳極於此矣。

 後漢書』の此文を以て『魏志』の本文に對照するときは、前者が後者を剽竊踏襲したる形跡、顯然とし亦敝ふべからず。然るに獨り怪むべきは、後漢書』が『魏志』の原文に女王國の南にありとせる狗奴國を擅に移して、女王國の東方千餘里の處にありと記せる倭種の住地に置かるること是なり。これ正しく原書の意と背馳し、誤謬を後世に傳へたるものと謂ふべく、本朝の史家が女王國の方位に就いて正當の解釋を得ざりしは、全く此曲筆に基く。然れども更に之を考ふるに、『後漢書』が此の如き杜撰の文を構成せるは、決して不注意より起りし偶然の誤謬にあらず、實は范曄が『魏志』の本文を誤解したるに因るなり。然らば編者は如何に此の本文を誤解したるかと云ふに、『魏志』に女王國より以北にある國々の戸數道里は略載すべしとあるに誘はれて、其下文にその餘の旁國遠絶にして詳に知るべからずとあるを、ひたぶるに女王國以南の國々と思ひ込みしなり。魏志』に「次有奴國、此女王境界所盡」とある文面は、必しも之を女王國の極南にありと云ふ意に取るべからざるを、『後漢書』は實に之をかく思惟したるのみならず、この奴國はまた倭國即ち九州全島の極南界にありと誤解せり其徴は同書倭國傳に

建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也

とある是なり。此の倭奴國は三宅博士が既に説けるが如く、伊都國の東なる奴國即ち國史の儺縣なるを、范曄は『魏志が旁國として列擧せる十七ヶ國の末尾に見えたる奴國と誤解したるなり。故に范曄は『魏志』載する二ヶ處の奴國を一國と誤り、而も之を女王國の極南界即ち倭國の極南界にありと見たりしなり。編者已に奴國を倭國の極南界にありと思惟せしかば、『魏志』に、「其南有狗奴國」とある文面に逢着して、狗奴國の方位遂に解すべからざることとなりぬ。因て范曄は之を以て陳壽の誤謬と斷定し、適※(二の字点、1-2-22)魏志』の下文に「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とあるに思ひつきて、狗奴國を之と連結せしめ、「自女王國東度海千餘里、至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」とある文を結構せるなり。『魏志』の文を熟讀するに、漢魏時代に倭國と云ふは主として九州地方を指ししものにて、此島より以東に位する四國あたりは、未だ倭國の範圍に包含せしめざりしものの如し。さればこそ上文に見ゆる如く「復有國、皆倭種」とのみ云ひて、其國名を擧げざりしなれ。故に女王國の東なる倭種の國より以下裸國黒齒國の事を記せる一段は、已に倭國即ち九州に據れる女王國及狗奴國の事を敍し去りし後に、其處より絶遠なる國々の事を附記せるなり。倭國即ち九州内に於ては魏使が通行せし沿道の國は更なり、絶遠の國々と雖も、猶其名稱だけは聞き傳へたれど、女王國の東方千餘里の外に僻在せる孤島に就いては、其の住民の倭種たるを幽かに聞き得たるのみにて、其國の何と呼びけん、名稱さへも定かに知られざりしなり。

之に反して狗奴國は倭國の南部に據りて、女王國と土壤を接したればこそ、其王の卑彌弓呼たることも、其官の狗古智卑狗たることも、また其國が女王國と相攻伐したることも、よく魏國に知られたるなれ。此の如く魏人に熟知せられたる狗奴國を以て、王名官名は更なり、國名さへも知らざりし、東方絶遠の倭種國に當てたる『後漢書』の著者は、全く『魏志』の文面を了解せざりしものと謂ふべし。
 若しも以上の推論に誤謬なしとすれば、後漢末より三國時代に亙りて、倭國即ち九州全島は南北の二大國に分裂し、北部は女王國の所領とし、南部は狗奴國の版圖として、兩々相對峙し久しく相讓らざる形勢をなししなり。然るに魏の正始八年に至り、女王國と狗奴國との間に戰鬪起り、女王卑彌呼は此亂中に沒したりと見ゆれば、此戰爭が女王國の敗北に終れることと察すべし。狗奴國が倭國の南部に據りて、而も此の如く強勇なりしを以て之を觀れば、此國こそ實に國史の所謂熊に當つべきものなれ。而して熊襲の領土は大隅を中心として、薩摩日向の大部分を包括したれば、三國時代に於ける狗奴國の境域も、殆ど之と同一なりしと見て不可なかるべし。從つて此國と對抗したる女王國の領地が豐、肥、筑前後六國に跨りたること亦察するに難からず。而して女王の都邪馬臺國の位置は此形勢に鑑み、又『魏志』に載する所の里數、日數及行路の状況を參酌して、其全領域の西南部にありしこと、余輩の安んじて斷言し得る所なり。

・・・

(この後も行程の話が長く続いています。なおその中に「魏志』に一月とあるは一日の誤寫なり」も書かれています

以上