邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B122) 「都宮としての纏向」の考察1

纏向は「都宮」として造営されたと想定して、関連考察を行ってみます。

その前に、纏向より以前に倭の中心地が有ったのではないかと思える「吉備」の話。

Xでコメントを頂いたので、ここにも収録。

◆アヂさん 

宮山式は岡山県総社市での纒向型墳形採用と同時に成立してます。大規模な文様変化を経ておりこれも大和の影響が入った可能性もありますが、先後関係としては吉備→大和だと思います>

→倭の中心が基本的に東方向に移動したと想定すると、「吉備→大和」の時系列関係は納得性が有ると思います。宮山墳墓関連は特殊器台だけでなく、「纒向型墳形採用」も非常に重要と思いますので今後検討。

楊堅さん 

大和と宮山が同盟したことで、互いの祭祀を融合した祭祀が生まれ、その一つが宮山式特殊器台でしょうね>

→「大和と宮山が同盟」の視点は、「吉備と大和という当時の大勢力が同盟して邪馬台国が成立した」と仮定すれば、国力の飛躍的アップの説明がつくと思われます。後は出雲との関係がどうだったか。

 

➡吉備の話から、纏向成立の背景として「吉備と大和」の関係が有ったと想定した上で「都宮」としての纏向を考察してみます。

まず、「なぜこのような考察を行うか?」ですが、日本(当時は倭)の古代(紀元後)においての最大の画期は、中国文献から「倭国大乱と卑弥呼共立」ではないかと個人的に考えるためです。

文明は基本的には漸進的な発展を辿ると思います。それで倭の「都宮」も最少は小さいものから始まって、段々大きくなっていったことが考えられます。

しかし、歴史上では条件が整った或る時期に急激に発展する場合があります。

倭の都宮も、卑弥呼共立以降に画期的な規模拡大が図られたのではないか。

また、国力もついて来たところで、海外=中国に目を向けたのではないか。

ただし、中国文献は「倭国大乱・卑弥呼共立」の記述の後は一旦途切れた形になって、次は最初の卑弥呼の魏遣使になります。

この間は記述が空白になっているため、考察も少なかったと思います。

一方実態としては、この間に色々な重大事が起きていたことは確実です。

この文献記述の空白と実態との間を、考古学の成果も利用して、考えてみることが必要になるでしょう。

このような背景を述べた後で、当方の考察の第一歩を記します。

仮説

邪馬台国は、魏へ使者を送るだけでなく、魏の使節来倭も要請して、魏や倭内に国力をアピールすることを考えたのではないか。

そして使節を迎えるにふさわしい都宮として、纏向を総力を挙げて造営することを考え、実行したのではないか」

→更に想像をたくましくして以下も仮定。

■「吉備と大和」の勢力が中心になって新しい大規模な都宮の造営を構想した時に、海と中国山地の間の狭い平野の吉備よりも、大きな盆地の大和の方が大規模都宮を作り易く、その中でも纏向を選択したのではないか(但し大和の中で纏向を選択した詳細理由の想定は難しい)。

→このように考えると、纏向遺跡の説明に見られる「3世紀初めに突如として現れた」というような記述と整合性が出るのではないかと思えます。

纏向遺跡説明例

纒向遺跡は、3世紀初めに突如として大集落が形成され、集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持つ、発生期の古墳群が存在しています>

 

➡考察の第一歩なので、本記事ではここまでとします。

(今回は「魏使節を迎える構想で作った」という考察にしましたが、魏志倭人伝の記述では「使者が邪馬台国の都宮へ行ったかどうかは判然としない」記述になっていると感じます。その辺も考え出すと更に長くなるので、本記事はここまで)

以上