→当方も吉備に大きな関心を持っていて、アヂさんの知見と考察に納得性を感じました。この件も深掘りしてみたいのですが、その前に「吉備の後のどこかの時期に倭の中心となった」ことが確実な纏向遺跡について先に当方の考えを述べておきます。
■纏向遺跡の大型建物(纏向遺跡調査報告では「居館域」とされています)の柱列の中心軸を延長すると、箸墓古墳の後円部の中心付近に至ります。
→どれぐらい中心と合ってるかは、いつか測量してみたいと思っていますが、写真で見るだけでも「偶然の一致ではない」ことが見て取れると思います。
つまり、纏向遺跡が都(みやこ)跡と想定すると、都の南側に正確に箸墓古墳が配置されていることになります。
結果的に、当時の人たちが都の都市計画を作って、大型建物(居館)と箸墓古墳を配置したことを(当方として)推測します。
後の考察は写真3枚の後に又記しますので、先ずは写真をご覧ください。(上掲の「纏向遺跡調査報告にも居館域の詳細な図が有ります)
↑ 手前の建物跡の「柱の並びの延長線」と、一番奥に見える「箸墓古墳の後円部の中心」がピタリ合っています。
→この配置が重要と考えるのは、「大型建物と箸墓古墳は都市計画で関連しているので、両方は同時期か、余り時期的に離れずに築造されたのではないか」という推定が出来るからです。
このため、「大型建物の築造時期が概ね判明すれば、箸墓古墳の築造は余り離れていない時期に行われたと推測可能」になります。
箸墓古墳は発掘不可ですが、大型建物はそうではないので、結果的に箸墓古墳の築造時期の検討がしやすくなります。
実際に「桃の種」で時期推定が行われています。
纒向遺跡:測定した教授「集大成」 モモの種年代測定 | 毎日新聞
<(桃が)実った時期は、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)の活動時期と重なる西暦135~230年の間>
→この居館築造推定時期と、「箸墓古墳」の築造時期が離れていないと考えることが可能というのが当方着眼点です(他にも同様着眼の方はおられると思いますが)。
ただし、桃の種の年代測定も確実と言えるのかという課題提起も有り、上記記事の中でも、そのことに言及があります。
それでも科学的に一定の根拠を持つ推測であり、また上記の「纏向遺跡調査報告」には「遺構の切り合い」や各種出土品の考察もあります。
これらの総合的検討が進んでいくことにより纏向遺跡の築造時期の特定が進んでいき、箸墓古墳の築造時期推定にもつながると思います。
特に「箸墓古墳の築造が三世紀と推測できるようになるかどうか」だけでも、一つの大きな段階になります。
というのは例えば「安本美典」氏の「邪馬台国九州説」では、九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に入り、巨大古墳などを作ったという主張になります。
そして東遷に時間が必要なため、最古の巨大前方後円墳とされる箸墓古墳の築造時期が三世紀では具合が悪く、考古学者の斉藤忠氏の説「4世紀中ごろ」を引用しています。
(当方ブログ(B007)安本美典氏の説についてで言及)
→安本氏ご自身の見解は「箸墓古墳の築造は4世紀」のようですが、当方着眼からの「三世紀」とどちらが確実性があるか。
このような検討を他の諸説についても行って行けば、数多ある邪馬台国論議の説の絞り込みに繋げて行けると想定しています。
以上
[追記]
「(中元)二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。東夷倭奴國王遣使奉獻。」
→倭使者もこの時に「郊祀」の祭礼と見たと推測できるでしょう。
■「郊祀」の説明(ブリタニカ国際大百科事典)
<古代中国の天子が,柴を焚いて,冬至には国都の南郊で天を,夏至には北郊で地を祀った大礼。天を祀るには円丘の壇を,地を祀るには方形の壇をつくる。帝王の威厳を示すもの>
→使者が倭に戻って報告し、倭の人も「郊祀」を知り、「倭でもやってみたい」というような気持ちは起きたのではないか。
しかし中国との国力の違いや宗教的成熟度の違いなどから、倭では、なかなか出来なかったことが推測されます。
それが卑弥呼共立で国のまとまりが進展して、国力が飛躍的に上がったと思われる纏向遺跡の頃に、それまでよりずっと規模の大きな都を造って、「郊祀」もようやく実現できるようになったのではないか(その前に小規模なものは有ったかも知れませんが)。
しかも、本文で説明したように、都の中心に有ったと思われる大型建物の南の線上に箸墓古墳の円丘の中心が有ります。「南に円丘の壇」と解すれば「郊祀」の説明に合致と思えます。(話が出来過ぎなぐらいにピタリ合致しています)
更に大胆予測すると、下図に示すように「箸墓古墳と大型建物を結ぶ線」の延長線上の北方には「方形の壇」の土台などが埋まっているのではないか。(今後いつの日にかに偶然に発見されないか密かに期待w)
→なお、大型建物と箸墓古墳の配置の関連性については、「苅谷俊介」氏が当方よりずっと前に説を出しておられました。細部では当方と違う所もありますが、全体的に非常に緻密で素晴らしい考察と感じています。
今後の記事で苅谷氏説を取り上げる予定です。
以上