今回は「後漢書は魏志の要約ではない」を検証する中で、背景説明のために「後漢書倭伝は魏志倭人伝に依っている」という見解例をまとめてみました。
非常に沢山あるのですが、邪馬台国論議における戦前と戦後の二つの論争の当事者の見解を抽出しました。()内は論争における、各者の主張。
[戦前]
<後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし>
②白鳥庫吉氏(九州説)
<『後漢書』が此の如き杜撰の文を構成せるは、決して不注意より起りし偶然の誤謬にあらず、實は范曄が『魏志』の本文を誤解したるに因るなり>
[戦後]
<范曄はせつかく『三国志』を下敷きとしながら、自分の「ゆがんだ地理像」に従って原文を書き変えてしまったのだ。
『三国志』と『後漢書』の記述が異なるとき、五世紀の范曄の文章を根拠にして、三世紀の陳寿の文章を改定することの、いかに危険であるかがわかるだろう>
④安本美典氏(邪馬一国はなかった)
< 「後漢書」 の 「倭伝」の文章は、 「三国志」 の 「魏志倭人伝」に近く、 おもに、 「魏志倭人伝」によっていることが明らかである。(同氏著:邪馬台国ハンドブックより)>
これら見解については、今後「後漢書は魏志の要約ではない」の論考を継続する中で検証予定ですが、改めて論争内容を見直してみた中で、気になったのが「安本美典」氏。
「古田武彦」氏を強力に批判しています。
安本氏の批判の方が正しい部分が殆どなのですが、安本氏自身の他の主張に根本的な矛盾が複数あります。
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【安本氏主張例】
①「箸墓古墳は四世紀の築造で(没年推定西暦360年頃の)崇神天皇陵築造の後か同じ頃」
→この主張の裏付けとして、安本氏は「斉藤忠」氏の以下見解を、安本氏が主張を始めた当初からずっと紹介しつづけています。
しかし、この斎藤氏見解は「1966年」刊行誌によるもので、その後の考古学の進歩は著しいものが有ります。
そのためか、纏向遺跡の発掘担当者であった「関川尚功」氏の見解(=「箸墓古墳を3世紀とするのは難しい」)も紹介しています。
しかし、関川氏は下表のように、「埴輪による編年で箸墓古墳は崇神天皇陵より古い」との見解を示しています。上記斉藤忠氏見解とは逆にも関わらず、安本氏は、それには言及していません。
ご存知の方も多いと思いますが、安本氏は「邪馬台国九州説」で、それを成り立たせるためには「畿内へ東遷」する時間が必要になります。
それに対して、巨大古墳が3世紀の畿内にあると、九州からの東遷はその前の時代となって、年代的に無理が生じます。
どうしても「巨大古墳出現は4世紀」ということにせざるを得ないのが安本氏説。
そのため、結果的に自説のために「考古学の進歩による発見」を無視や批判し続ける状態になっています。
②天皇在位平均約10年説
→「九州説」や「東遷説」と並ぶ安本氏の主張の柱が「卑弥呼=天照大神」説です。
これを成立させるのが「天皇平均在位年数約10年」説になります。
しかし、この説だと「古事記の天皇没年干支(例:崇神天皇没年西暦換算で318年or258年)」を無視することになり、安本氏は「応神天皇以前の古事記の天皇没年干支は信頼できない」とします。
一方、日本書紀の天皇没年は、古代天皇において明らかな在位期間の延長が見られるため、実際の没年とは大きく乖離しているでしょう。
その上で記紀両方を考えてみて、古事記の天皇没年干支も信頼できないとすると、日本の最初期の正史である記紀の没年記述が、両方とも信頼できないことになります。
そんなことがあるのでしょうか。
特に古事記の没年記述については、上記のような考古学の進歩による古墳年代の特定とも併せて、慎重に吟味する必要があると思います。
また、「七支刀」は文献(日本書紀)と現物(石上神宮所蔵)の年代が合致していると見られ、四世紀の重要資料です。参考としてwikipedia「七支刀」の記述を示します。
<日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている>
→安本氏説で崇神天皇没年を360年頃とすると、神功皇后は「崇神→垂仁→景行→仲哀→神功」ですから、年代に矛盾が生じると思われます。
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安本氏の「邪馬台国の会」の取組みなどは、科学的・実証的精神に基づいていて素晴らしい業績と思えるのに、ご自身の主張に関連するところは、自説擁護優先になっているようで残念に思えてなりません。
以上