邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B008)安本美典氏の説について(続)

安本氏の説についての続きです。

同氏著作「巨大古墳の被葬者は誰か」から、箸墓古墳についての仮説引用。

<【四つの仮説】

箸墓古墳については、さまざまな仮説が成立する。すなわち、
[仮説1箸墓古墳の築造時期は、崇神天皇陵古墳よりも新しい。
[仮説2箸墓古墳の築造時期は、崇神天皇陵古墳と、ほば同時期あるいはごくわずか前てある。このばあい、箸墓古墳の被葬者としては、伝承どおり、倭迹迹日百襲姫と考えて大体よいことになるてあろう。古墳築造の時期としては、西暦三五〇年前後を考えることになる。
[仮説3箸墓古墳の築造時期は、崇神天皇陵古墳などよりも古いと考える。西暦三世紀の後半から末ごろと考える。
[仮説4箸墓古墳の築造時期は、西暦三世紀の中ごろと考える。すなわち、「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」とは切り離して、箸墓は卑弥呼の墓である可能性があると考える。

・・・私(安本氏)は、このうちの〔仮説2〕を支持する>

 

→ 一方、安本氏の長年にわたる素晴らしい取り組みである「邪馬台国の会」で、例えば考古学者の「石野博信」氏が出席して、このように述べています。

第257回活動記録

<■邪馬台国の決め手
何が出てくれば邪馬台国が決まるのか。漢字の一部が含まれる封泥が大量に出てきたら、邪馬台国の決め手となるだろう。文書や物品は、装封して封泥で紐の結び目を固めて送られてくる。邪馬台国開封した時にこわれた封泥が残るからである>

→これに対しては、前記の[仮説4〕のように、「箸墓古墳の築造が西暦三世紀の中ごろであれば、箸墓古墳卑弥呼の墓の可能性がある」と、安本氏自らが言っているのです。

石野氏は以下も述べています。

邪馬台国論争は文献が発端となった議論で、『魏志倭人伝』がなければ邪馬台国論争はない。>

→確かに発端は文献ですが、考古学で古墳築造時代を大体決めれば、上記の仮説検証が出来るため、安本氏でさえ認める形で論争に決着をつけることが可能です。

そして、考古学の進歩で[仮説1〕[仮説2〕は否定されて、箸墓古墳崇神天皇陵より”相対的に古い”ことは、もはや確定であることは専門家の石野氏はよくご存じのはず。

学者はお互いの専門分野を侵さないことを不文律のようにしているきらいがありますが、時と場合に依るのであって、邪馬台国論議は国の成り立ちの話にもつながります。

少なくとも、今や完全に無理筋の話(「箸墓古墳の築造時期は崇神天皇陵より新しい」との説(斉藤忠氏など))は、考古学主導で早く決着を付けてしまうことが望ましいと思われます。

なお歴博などの「炭素法による年代測定」には、安本氏らは強力に批判しており、「特殊器台や円筒形埴輪の編年による相対年代決定」の併用が、論議において有効と思います。

以上

[追記]

文献面でも「日本書紀崇神天皇10年条」に箸墓古墳の話があるのは、個人的に非常に重要と考えています。

<倭迹迹日姫命は仰ぎみて悔い、どすんと坐りこんだ。
そのとき、箸で陰部を突いて死んでしまわれた。
それで大市に葬った。
当時の人は、その墓を名づけて箸墓という。 
その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。
大坂山の石を運んで造った。
山から墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。

(歌は略)>

→古墳築造の記述がこれほど詳しいのは日本書紀全体の中でも箸墓古墳だけです。

幾ら霊感が優れていても、天皇ではなく天皇の伯母の墓が、それまでとは隔絶した大きさの前方後円墳というのは不可解で、もっと深い事情が有るはず。

追記以上