邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B022)日本書紀の暦法に関して、及び「桂川光和」氏グラフと崇神天皇没年に関して

前記事(B021)の追記に載せた以下ブログで興味深い記述が有りました

天武天皇の年齢研究−元嘉暦と儀鳳暦

<持統から雄略までは、元嘉暦で書かれ、それ以前は儀鳳暦(平朔)で書かれました。元嘉暦使用はそれまでにも使用されていたからでしょう。全体を元嘉暦で統一しなかった理由は、古代中国南宋の元嘉暦成立が443年であり、それ以前の使用が許されないからです。実際に元嘉暦法が日本に入ってきたからではありません>

→中国南宋における「元嘉暦成立443年」ということで、日本書紀古事記の没年が合致するのは安康天皇没年=456年なので、その10年程度前になります。

加えて、「持統から雄略までは、元嘉暦で書かれ、それ以前は儀鳳暦(平朔)で書かれました」としていて、雄略天皇の期間から儀鳳暦に変わったと考えられそうです(安康没年は雄略元年に接続するので雄略から儀鳳暦でも安康没年は同じになる)

そして、前記事で「安康より前の天皇の系譜や事績に関しては、元嘉暦で書かれた資料が有ったと個人的に推定」と書きましたが、元嘉暦成立以前は「どのような暦になっていたかは不明」と考える方が妥当とも思えます。

また、百済武寧王墓誌は「元嘉暦」で書かれているとのこと(wikiより)

寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到

→「日本書紀百済からの渡来人が主導して書いたのではないか」という以前からの推測が、ますます強まります。

 

なお関連で、昨日Twitterの方で紹介した「桂川光和」氏のグラフ。(桂川氏は記事(018)でも紹介している鋭い論考のかたです)

暦法切り替わり」等は当方でグラフ上に追記しています。


前述のように、暦法切替わり(「第20代安康以前は儀鳳暦」で「第21代雄略以後は元嘉暦」)があると想定すると、グラフの変化点とよく合致しています。

そして特に「第15代応神から急にズレが大きくなっている」ことが見て取れます(右側の表で見て応神没年は古事記394年で日本書紀は310年なので84年のズレ)

これは「魏志倭人伝との整合を取るために、神功皇后の時代に対して細工(120年ずらし)が行われている」と推測すると、その影響が後続の応神に大きく出ている可能性が有ると思います。

(更に儀鳳暦で記された安康以前の紀年には、神武元年を紀元前660年にしたことによる調整も入ると考えられるので、ややこしくなります)

 

また桂川氏は「崇神没=318年」説です。

この没年について、紀年論だけでなく古墳編年からも考えてみます。

箸墓⇒西殿塚⇒崇神」の築造順は多くの専門家の見解になっていて、今や確定的と思えます。

批判しているのは「箸墓は卑弥呼の墓ではない」と長年主張している「邪馬台国の会」の安本美典氏らのグループなど、少数になっていると思います。

しかし、その人たちが色々な論点を挙げて上記築造順を否定しようとしても、特に「特殊器台や円筒埴輪の編年」が強力で、覆すのは困難でしょう。

陵墓やその参考地等は発掘できませんが、「特殊器台や円筒埴輪」は古墳の表面に立てられ、しかも下部は埋められていたので、実質的に古墳からの出土品です。

それの編年で「箸墓⇒西殿塚⇒崇神陵」ですから、安本氏らの否定は無理筋に思えます。

さて、没年に戻って考えると、卑弥呼没は梁書で「正始中(240年~249年)」

更に魏志倭人伝で「張世派遣」の記事の中に卑弥呼没の記述が有ります。

<其(正始)八年(247年,太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢,拜假難升米爲檄告喻之。卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人>

→この記述から、張政ら派遣前に卑弥呼没と想定して、没年は246年と仮定してみます。

崇神没258年想定だと、卑弥呼没からは「258-246=12年」しかないことになります。

そのような時系列で、(西殿塚=台与墓と仮定して)「箸墓⇒西殿塚⇒崇神陵」と巨大古墳が築造出来たか。

また、そもそも台与には「266年に遣使」の記録が有ります。

崇神没258年では、(台与没年は不明ですが)崇神没が台与没より前の時系列になり、古墳の築造順と合わないということになります。

このように崇神没258年説は問題が多くなります。

結果的に、古事記没年干支からの「崇神没258年or318年」の二択で考える場合は、後者にならざるを得ないと思います。

以上

[補足]

なお、崇神没年に関して「そもそも古事記の没年干支は信頼できるのか」という論議も有ります。

これに関しては、まず「儀鳳暦で書かれた安康以前の日本書紀年代」には、上記本文で述べたように日本書紀編者らによる調整が入っているのは確実です。

もし古事記まで事実を曲げているなら、「何のために古事記は没年干支を書いたのか?」ということになると個人的に考えています。

それで、没年干支が間違っているという納得性のある証明が出てくるまでは、信頼する基本スタンスです。

補足以上