邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B064)『史通』について2

『史通』《卷十二》に正史成立の流れが記載されているので、メモを兼ねて長文引用を行います。

漢文の読める江戸や、明治以降の大家の方々までもが、これを見ても「『後漢書』倭伝は『魏志倭人伝に依拠している」と考えたことが不思議です。

成立年代にとらわれ過ぎて、真の依拠関係を見抜けなかった。

 

なお、成立年代の話では、いつも思い出す「伊作さん」ブログの見解も添付します。

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『史通』《卷十二》

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在漢中興,明帝始詔班固與睢陽令陳宗、長陵令尹敏、司隸從事孟異《班固傳》作「異」,舊木作「冀」。作《世祖本紀》,並撰功臣及新市、平林、公孫述事,作列傳、載記二十八篇。

自是以來,春秋考紀此句舊本作「春秋世」三字,王本「世」字下空一字。亦以煥炳,而忠臣義士莫之撰勒。於是又詔史官謁者僕射劉珍及諫議大夫李尤或訛作「充」。雜作記、表,名臣、節士、儒林、外戚諸傳,起自建武,光武元。訖乎永初。安帝元。事業垂竟而珍、尤一作「等」。繼卒。復命侍中伏無忌與諫議大夫黃景作諸王、王子、功臣、恩澤侯表,南單于、西羌傳,地理志。

至元嘉元年,桓帝無。復令太中大夫邊韶、大軍營司馬崔實、議郎朱穆、曹壽雜作《孝穆》、《崇》二皇「孝穆」五字,傳寫訛脫,當作「獻穆、孝崇二皇后」。及《順烈皇后傳》,又增《外戚傳》入安思等後,《儒林傳》入崔篆諸人。實、壽又與議郎延篤雜作《百官表》,順帝功臣《孫程》、《郭願》及《鄭眾》、《蔡倫》等傳。凡百十有四篇,號曰《漢記》。

熹〈舊訛「嘉」。〉平中,熹平是靈帝改元。光祿大夫馬日碑,議郎蔡邕、楊彪盧植著作東觀、接續紀傳之可成者,而邕別作《朝會》、《車服》二志。後坐事徙朔方,上書求還,續成十志。本傳作「十意」。會董卓作亂,大駕此二字,一本脫。西遷,史臣廢棄,舊文散佚。及一無「及」字。在許都,楊彪頗存注記。至於名賢君子,自永一作「本」,誤。初已下闕續。

魏黃初中,文帝元。唯著《先賢表》,故《漢〈一脫「漢」字。〉記》殘缺,至晉無成,泰始中,晉武帝元。秘書丞司馬彪始討論眾書,一作「說」,一作「作」。今依《彪傳》。綴其所聞,起元傳作「於」。光武,終於孝獻。

錄世十二,編年二百,通綜上下,旁引傳作「貫」。庶事,為紀、志、傳凡八十依本傳。舊作「一十三」。篇,號曰《續漢書》。又散騎常侍華嶠,刪定《東觀記》為《漢後〈或作「後漢」,誤。〉書》,帝紀十二、或訛作「三」。皇后紀二、典十、一作「十典」,又以「三譜」置「十典」上。列傳七十、譜三,嶠本傳作「三譜序傳目錄」。總九十七或誤作「二」。篇。其十典竟不成而卒。自斯已往,已往,猶云已上,總前而言也。舊作「後」,非。作者相繼,為編年者四族,創紀傳者五家。推其所長,華氏居最。而遭晉室東徙,三惟一存。所存惟三分之一也。

至宋宣城太守范曄,乃廣集學徒,窮覽舊籍,刪煩補略,作《後漢書》,凡十紀、十志、八十列傳,合為百篇。會曄以罪被收,其十志亦未成而死。

先是,晉東陽太守袁宏抄撮《漢氏後書》,依荀悅體,著《後漢紀》三十或誤作「十三」。篇。世言漢中興史者,唯範、袁一作「袁範」。二家而已。

魏史,黃初、太和中始命尚書衛覬、繆襲草刨紀傳,累載不成。又命侍中韋誕、應璩,秘書監一無「監」字。王沈,大將軍從事中郎阮籍,司徒右長史孫該,司隸校尉傅玄等,復共撰一作「擇」。定。其後王沈獨就其業,勒成《魏書》四十四卷。其書多為時諱,殊非實錄。

吳大帝之季年,始命太史令丁孚、郎中項峻撰《吳書》。孚、峻一作「峻孚」俱非史才,其文不足紀錄。至少帝時,更敕韋曜、周昭、薛瑩、梁廣、華核訪求往事,相與記述。並作之中,曜、一作「推」。瑩為首。當歸命侯時,昭、廣一作「廣昭」。先亡,曜、瑩徙黜,史官久闕,書遂無聞。核表請召一無「召」字。曜、瑩續成前史,其後曜獨終其書,定為五十五卷。

至晉受命,海內大同,著作陳壽,乃集三國史,前但述二國,此云三國者,據陳所撰書為言也。撰為《國志》,凡六十五篇。夏侯湛時亦著《魏書》,見壽所作,便壞己草而罷。及壽卒,梁州大中正範頵表言《國志》明乎得失,辭多勸誡,有益風化,願垂採錄。於是詔下河南尹,就家寫其書。

先是,魏時京兆魚豢私撰《魏略》,事止明帝。其後孫盛撰《魏氏春秋》,王隱撰《蜀記》,張勃撰《吳錄》。異聞錯出,其流最一作「甚」。多。宋文帝以《國志》載事一作「紀」。傷於簡略,乃命中書郎裴松之兼採眾書,補注其闕。由是世一無「世」字。言《三國志》者,以裴《注》為本焉。

晉史,洛京時,著作郎陸機始撰三祖紀,佐著作郎一脫「郎」字。束皙又撰十志。會中朝喪亂,其書不存。先是,歷陽令陳郡一作「留」。王銓一誤作「鈐」,下同。有著述才,每私錄晉事舊誤作「晉書」。及功臣行狀,未就而卒。子隱,博學多聞,郭作「文」。受父遺業,西都事跡,多所詳究。

過江為著作郎,受詔撰晉史。為其同僚虞預所訴,舊作「斥」,誤。坐事免官。家貧無資,書未遂就,乃依征西將軍庾亮於武昌鎮。亮給其紙筆,由是獲成,凡為《晉書》八十九卷。咸康六年,始詣闕奏上。隱雖好述作,而辭拙才鈍。其書編次有序者,皆銓所修;章句混漫者,必隱所作。時尚書郎領國史干寶,亦撰《晉紀》,自宣迄愍七帝,五十三年,凡二十二卷。其書簡略,直而能婉,甚為當時所稱。

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伊作さんブログを以下に示します。

→伊作さんは、「華キョウ(華嶠)の『後漢書』(『漢後書』)に東夷伝は無かった」と見ておられたようです。

しかし、『後漢書』本紀を見ただけでも、後漢代にも東夷の遣使が多くあり、情報が入手出来ていたことは確実です。

それが『東観漢記』に記され、更に上記『史通』に有るように「華嶠,刪定《東觀記》為《漢後〈或作「後漢」,誤。〉書》」となったわけで、華嶠『後漢書』に(どのような形だったかは別にして)東夷情報が入っていたと見る方が自然でしょう。

非常に綿密に論考しておられたのに、やはり成立年代の影響から抜けきれなかった???

●付記3・『後漢書』倭伝の検証 - 邪馬台国・奇跡の解法

以上

[追記1]

昨日hyenaさんから掲示板時代においての、或る方の推察コメントを教えて頂きました。

<『東観漢記』は現行『後漢書』の帝紀・倭伝双方の記事を合わせたような記述だったのではないか。

東觀漢記安帝紀の記述は、 「(永初元年)冬十月、倭國遣倭面土國王帥升等、獻生口百六十人、願請見。』 という風なものだったかと思われてくるわけです>

→当方も、本紀と列伝の表現については注目しています。

それで以前にも書きましたが、後漢書の本紀は「詔曰」で引用が長い場合はあります。

しかし、例えば「 孝安帝紀永初三年記事」で、<高句驪遣使貢獻 >のように簡潔文章も多くなっています。

そのため、上記のコメントの推察が合っているかどうかは、判定が難しくなります。

今後も検討。

ちなみに当方も列伝ですが、魏志倭人伝において、後漢書倭伝の文章も並べると、以下のようになって、「其國」で文章がつながるのではないか、という考察をしてみたことがあります(これは自信は無いですが)。

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建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。

其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、

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追記1以上

[追記2]

少し話がそれますが、後漢書に関して検索していたら、全く知らない方の論文が、たまたま検索候補の中に出て来ました。

論文内容も、当方の今の検証には関係ないのですが、「文献史学」いう分野はこういうことをやっているのか、ということでメモしました。

『後漢書』南蠻傳の領域性とその史的背景 : 交阯部と荊州南部の關係から
大東文化大学漢学会誌
<『後漢書』南蛮伝が内包する時間的、地理的領域の在り方としての領域性と、その背景としての史的展開を明らかにする。すなわち、「南蛮伝」は、後漢時代における中国南方の異民族を記録する列伝であるが、その記録対象となる地理的範囲は、現在の四川、湖南から広州、越南に至る広大なものである。だが、広大な地理的範囲の内側には、それぞれ地域差があり、一体的に捉え得るものではない。それにも関わらず、「南蛮伝」が広大な地理的範囲を一括して捉えた背景には、後漢時代の荊州南部と交阯部の政治的動向が一体的に連動する関係があったのである。> 

→タイトルを見ただけでも、「浮世離れ」と言いたくなるような感じです。

結局、このようなところに関心が行っていて、目の前に有る日本にとって重要と言える「魏志非依拠」は、視野から外れっぱなしなのだろうな、と妙に納得してしまいました(苦笑)

結果的に、門外漢がやることも意味が有りそうに思えて来ます。

追記2以上