東夷伝と烏桓鮮卑伝において、「魏志」には無くて、「後漢書」にある記述が存在します。
また「後漢紀」にも「後漢書」に対応する記述が有りますが、簡略になっています。
推測としては、陳寿・袁宏・范曄が見た共通的な史料(原史料)があったと想定。
その候補は、これまでの当ブログで検証してきたように「東観漢記」。
但し陳寿は、「魏志(三国志)」なので後漢代の記述は少なめにする方針だったことが考えられます。
また陳書より約100年後の「後漢紀」にも、簡略ながら范書とつながる記述が有ります。
これは「原史料(東観漢記)」が袁宏の時代まで存在したことを示し、その約50年後の范曄の時代までも存在したことも想定可能になってきます。
以上のように考えて行くと、
「魏志の後漢代記述・後漢紀・後漢書は、東観漢記の異国伝の逸文の位置づけになる」と言えるのではないかと思います。
イメージを示します。
また、以下の1)~6)は、魏志に無くて「後漢紀」と「後漢書」にある記述の実例を示します(更にまだあると思います。なお、3)は後漢紀に無くて後漢書のみ)
これらを見ると、
「東観漢記の異国伝には、東夷伝と烏桓鮮卑伝もあって四夷に対応していた」ということも確実と思えます。
1)夫餘伝...延光元年記事
◆魏志:無し
◆後漢紀
延光元年春夫餘王遣兵助玄莬使貢獻
◆後漢書
延光元年春二月,夫餘王遣子將兵救玄菟,擊高句驪、馬韓、穢貊,破之,遂遣使貢獻。
◆魏志
至殤、安之間,句麗王宮數寇遼東,更屬玄菟。遼東太守蔡風、玄菟太守姚光以宮爲二郡害,興師伐之。宮詐降請和,二郡不進。宮密遣軍攻玄菟,焚燒候城,入遼隧,殺吏民。後宮復犯遼東,蔡風輕將吏士追討之,軍敗沒。
◆後漢紀
建光元年春正月高麗冦玄菟
◆後漢書
●本紀:孝安帝紀:建光元年春正月,幽州刺史馮煥率二郡太守討高句驪、穢貊,不克。
●東夷伝:後句驪王宮生而開目能視,國人懷之,及長勇壯,數犯邊境。和帝元興元年春,復入遼東,寇略六縣,太守耿夔擊破之,斬其渠帥。安帝永初五年,宮遣使貢獻,求屬玄菟。元初五年,復與濊貊寇玄菟,攻華麗城。建光元年春,幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之,捕斬濊貊渠帥,獲兵馬財物。宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等,遣使詐降;光等信之,遂成因據險阨以遮大軍,而潛遣三千人攻玄菟、遼東,焚城郭,殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之,而貊人已去。夏,復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊,殺略吏人。蔡諷等追擊於新昌,戰歿,功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳,死者百餘人。秋,宮遂率馬韓、濊貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人,與州郡并力討破之,斬首五百餘級。
3)韓伝...韓人廉斯人蘇馬諟
◆魏志:無し
◆後漢紀:無し
◆後漢書
建武二十年,韓人廉斯人蘇馬諟等詣樂浪貢獻。光武封蘇馬諟為漢廉斯邑君,使屬樂浪郡,四時朝謁
4)倭伝...後漢代遣使2回
◆魏志:無し
◆後漢紀
●中元二年春正月辛未𥘉起北郊祀后土丁丑倭奴國王遣使奉獻
●永初元年十月倭國遣使奉獻
◆後漢書
●本紀:
建武中元二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。東夷倭奴國王遣使奉獻。
永初元年冬十月,倭國遣使奉獻
●倭伝
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
5)烏桓伝...永初三年記事
◆魏志:無し
◆後漢紀
永初三年六月烏桓㓂代郡
◆後漢書
安帝永初三年夏,漁陽烏桓與右北平胡千餘寇代郡
6)鮮卑伝...元初五年記事
◆魏志:無し
◆後漢紀
元初五年秋...八月鮮卑冦代郡
◆後漢書
元初五年秋,代郡鮮卑萬餘騎遂穿塞入寇,分攻城邑,燒官寺,殺長吏而去。乃發緣邊甲卒、黎陽營兵,屯上谷以備之。冬,鮮卑入上谷,攻居庸關,復發緣邊諸郡、黎陽營兵、積射士步騎二萬人,屯列衝要。
以上