魏志の「夫餘伝」の構成を見てみたところ、烏丸伝(鮮卑伝も)と同様の構成で、大きく 「AとBの二つの部分」に分けられることが分かりました。
烏丸伝と夫餘伝の構成と説明を以下に示します。
A:後漢代
→烏丸伝はこの部分が王沈「魏書」の引用になっています。
「魏志の方は引用でなく本文になっている」という違いが有ります。
この点の考察については後述します。
B:「(後)漢末」から始まって魏代の記述になっています
①魏志 烏丸伝
②魏志 夫餘伝
➡前述のように、①魏志「烏丸伝」の後漢代部分は裴注による王沈「魏書」からの長い引用になっています(鮮卑伝も)。
陳寿は別の史書(この場合は王沈「魏書」)で後漢代が記述されていることを知っていて、後漢代は省略したのでしょう。
陳寿の烏丸伝記述は「(後)漢末」から始まっており、「魏志」という名に合わせた構成にしたと想定出来ます。
しかし、東夷伝では、烏丸・鮮卑伝のような「後漢代記述」の割り切った省略はされていません。
そのことに関して、ずっと違和感を持ってきましたが、夫餘伝を改めて見たら、途中に「漢末」の語句があって、それ以降は魏代に続く記述になっています(上記の②魏志夫餘伝のB)。
つまり烏丸・鮮卑伝と同じ構成であり、「魏書の引用かどうかの違い」になっています。
このことが重要になるのは、以下のように「別の史書の存在」が類推出来る点です。
◆夫餘伝についても、烏丸・鮮卑伝の場合の王沈「魏書」と同じく、後漢代の記事を記載した「別の史書」があって、陳寿はそれを参照して夫餘伝の後漢代部分を書いたのではないか
→陳寿は、後漢代の記事について、晋代に自らで情報を得ることは難しく、何らかの先行資料を参照したことは確実でしょう。
但し、色々不明な点があるので、箇条書き的にメモ列記。今後検討。
(2)烏丸・鮮卑伝と同様に、夫餘伝も王沈「魏書」に記述が有ったかどうか。
(3)もし王沈「魏書」に夫餘伝も有ったとしたら、陳寿は夫餘伝も後漢代記述を省略して「漢末」から始めても良いのに、何故そうしなかったのか?
(4)王沈「魏書」とは違う別の史書を参照した場合は、例えば、その史書の記述が、魏書のようには、まとまっていなかったので、陳寿が自分で修整して後漢代記述をまとめ上げて本文に書いたなどの事情が有ったのか?
(5)夫餘以外の東夷伝に関して、陳寿が参照した先行史書に夫餘伝だけが独立してあったと考えるより、「東夷伝」全体があったと推測するのが自然そう。
ただし、(4)で書いたように、陳寿が改めて自分で纏めた方が良いと考えたレベルだったのか?
(5)しかし、後漢書の東夷伝はスッキリしていて、更に魏志よりも詳細な部分が有り、范曄が参照した史書を陳寿も見れていたなら、それをベースにした方が良かったのではないか?(或いは陳寿は范曄が参照した史書そのものではなく、それと内容は似ているが別系統で伝わった史書などを見たか)
(6)後漢書も考えると、後漢書に東夷伝全体が有るので、范曄が参照した史書には東夷伝があったのは確実。
(7)後漢書を例に取ると、魏志の烏丸・鮮卑伝の王沈「魏書」引用部分より、後漢書の烏桓・鮮卑伝の記述の方が詳細な部分が多々ある
→范曄は何を参照したのか?(東観漢記が有力候補だが、東観漢記からの引用は裴注でも出て来ないので、どうも関係性が不明)
(8)夫餘伝でも、魏志の後漢代記述より後漢書の方が詳細な部分として、以下の年号付き記述がある
建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年,夫餘王遣使奉貢,光武厚答报之,於是使命歲通。至安帝永初五年,夫餘王始將步騎七八千人寇抄樂浪,殺傷吏民,後復归附。永宁元年,乃遣嗣子尉仇台詣阙貢獻,天子賜尉仇台印綬金彩。順帝永和元年,其王來朝京师,帝作黄門鼓吹、角抵戏以遣之。桓帝延熹四年,遣使朝賀貢獻。永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。
➡今後、他の東夷諸国伝なども見て検討。
以上