邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B034)後漢書倭伝と魏志倭人伝の「習俗等の記述順比較」

後漢書倭伝と魏志倭人伝の「習俗等の記述順比較」を行ってみました。

比較結果表は以下です。

◆現在、分ってきたこと(比較表に付与したA~Cごとに説明)

魏志では「黥面文身」に一番注目しているように見えます

→「黥面文身」の記述が、後漢書No⑦ ⇒ 魏志No(1)に移動しています。

これは「魏志の項目の一番上に持って来るほどの注目度」を表しているのではないかと推察(個人的見解)。

後漢代遣使でも注目されたことが考えられますが、魏代は女王からの遣使という注目点と共に、倭使者らの刺青も改めて注目された可能性。

A’:「刺青」の項目と共に、衣服や髪型等の外観に関わる項目も移動したのではないか

→記述の並びに配慮したのではないかと推察。

B1、B2陳寿後漢書のNo1記述を分割したのではないか

後漢書のNo①「其地大較在會稽東冶之東,與硃崖、儋耳相近,故其法俗多同」を、魏志No(2)「計其道里,當在會稽東治之東」(B1)と同No(8)「所有無與儋耳、硃崖同」(B2)に分けたように見えます。

これは陳寿が、魏志No(2)は倭の「位置」の情報を表し、同同No(8)は「所有」の特徴を表しているというように認識したのではないか(或いは読者に認識させようとしたか)。

C魏志No(5)(6)(7)を、陳寿は「所有を表す」という括りにしたのではないか

陳寿は、まず「黥面文身」の強調を最優先にして、その後に「所有の有無」の特徴を列記して、改めて「儋耳朱崖」に近いことを説明しようとしたのではないか。

(なお、「陳寿が」というのは「陳寿が参照した先行史料との作者・編者らも含みます)

 

➡以上の説明はややこしいですが、突き詰めると以下2点を考えています

1.陳寿が自らの独自的な発想?で並び順を大幅に変えたのではないか

  →原史料は後漢書のような整然とした並び順だったと想定

2.もし「范曄が修正した」と想定する場合は、「范曄が約150年後に陳寿の発想を或る程度読み解いた上で、それよりは整然とした並びにした方が良いと考えて並べ直した」ということになりそうですが、実際に実行するのは無理ではないか

  →理系的には、「エントロピー増大の法則」でも説明できるかもしれません。或いは一般的には「覆水盆に返らず 」の例えか。

➡「整然としたものを雑然とさせることはたやすいが、逆は困難」

→ただし、雑然⇒整然にする強い意志を持って手間暇かければ実現できる場合は有りますが、范曄が四夷伝全体の約1.3%しかない倭に、そこまでする動機も時間も無かったのではないかと推測。

 

一旦以上ですが、重要なことなので、現時点ではまだ暫定の考察として検討継続。