邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B016)范曄が三国志を見ないで書けた可能性の検証3(例:『後漢書』高句麗伝)

前記事(B015)に引き続き、『後漢書高句麗伝を分析しました。

高句麗伝は、魏志後漢書以外に二つの史書に記述が有りますので、計四つの史書で表を作成しました。

表の中で、新たに加えた以下の二史書は次の色にしてあります。

◆太平御覧所引『魏略』(緑字)

◆『後漢紀』(橙字)

➡「魏志に無くて後漢書に有る部分」(桃色網掛け)も多く、魏志を見ても書けない部分が多いことになります。(景初以降は、魏志の一番下段の黒字部分ですが、ごく少ないです)

更に習俗等の部分は似た記述が魏略にもあり、結果的に范曄が魏志を見て書いたという見方には疑問が出ます⇒魏志を見ないで書いた可能性が出て来ます。

また、詳細内容においても、各書で違いがあるので表の後に記します。

各書おける違いが色々有あるので、現在特に注目している点を挙げます。

(魏略は(ⅰ)~(ⅲ)関係の記述全く無し)

(ⅰ)高句麗王「宮」の没年

魏志:年号の記述無し

後漢書:建光元年(121年) 

後漢紀:元初元年(114年)

(ⅱ)同 継承関係(抜粋)

魏志:宮⇒伯固

後漢書:宮⇒遂成伯固

後漢紀:宮のみで子の記述無し

(ⅲ)「尚書陳忠曰」の記述

魏志:無し

後漢書:有り

後漢紀:有り

➡現状(2022年10月22日)までの考察

1)「宮」の子が「伯固(魏志)」と「遂成(後漢書)」で全く異なる名前であり、両書が参照した原資料は別物で有った可能性が高くなります(原史料が複数あったこと自体は考え得ると思います)

なお「遂成」は(当方が]調べた限りでは)他書では見当たりません。

しかし、後漢書では詔曰:“遂成等桀逆無状,。。。」と「詔」に入っていて公式記録となっており、「遂成」の信憑性も高いと思われます(どちらが正しいかは現状未把握)

2)宮」の没年が後漢書121年、後漢紀114年となっていて異なります。

後漢書後漢紀が参照した原資料も別物なのか?」という疑念が出ます。

しかし、両書の記述内容は、(魏志に無い)尚書陳忠曰」が有るなどで似ています。

そのため考えられることとしては、「後漢紀が紀伝体の史料を編年体に組み直す時に手違いがあった可能性」なども想定し得えますので(他年の記述で年号勘違い有り)、今後詳細検証予定して結果が判明したら追記予定。

なお、夫餘の記述も、短文二つが後漢紀にあることが分かったので検討予定です。

以上

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[補足資料]

◆「魏略(太平御覧所引き)・後漢書三国志」及び「後漢紀」の高句麗伝記述

後漢紀」(上掲三書のような習俗部分等は無し)

元初元年(114年)...高句麗王宮數㓂幽部是歲宫死玄菟太守姚光上言欲因其喪發遼東樂浪三郡兵出擊之議者以為可許尚書陳忠曰前者宮傑惡光不能討今自死宜遣使者弔問因責讓宫時所犯告以赦令不加誅責取其後善從之句麗由是服焉

 

以上

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高句麗伝の注目点は、後段に示す『太平御覧』所引きの『魏略』逸文です。

長い記述になっており、以下の「B:点線内は魏略に似た記述有り」の部分が大きな割合を占めます。

その上で、「A:赤字の部分は三国志に殆ど無い」記述です。

結果的に、AとBで大部分が占められ、「三国志を見ないで書けた可能性」は夫餘伝より更に高くなります。