邪馬台国「新証明」

古代史を趣味で研究しているペンネーム「古代史郎」(古代を知ろう!)です。電子系技術者としての経験を活かして確実性重視での「新証明」を目指します。

(B017)范曄が三国志を見ないで書けた可能性の検証3(例:『後漢書』倭伝)

前記事(B015)(B016)に引き続き、『後漢書』倭伝を分析しました。

 

赤字:魏志に無い内容

青字:漢書や魏略に有る内容と同等(楽浪と帯方などは同等とした)

緑字:漢書地理志粤地の関連(詳細は相違あるが関連として認識)

黒字:魏志と似た内容(特に習俗・持衰・倭国大乱・卑弥呼共立が目立つ)

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倭在韓東南大海中,依山島為居凡百餘國。武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱王,世世傳統。其大倭王居邪馬台國。樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東,與硃崖、儋耳相近,故其法俗多同。土宜禾稻、麻紵、蠶桑,知織绩為缣布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣温暖,冬夏生菜茹。無牛、馬、虎、豹、羊、 鵲。 其兵有矛、楯、木弓、竹矢,或以骨為鏃。男子皆黥面文身以其文左右大小别尊卑之差。其男衣皆横幅,结束相連。女人被发屈紒,衣如单被,贯頭而着之;

并以丹硃坌身,如中國之用粉也。有城栅屋室。父母兄弟異處,唯會同男女無别。飲食以手,而用籩豆。俗皆徒跣,以蹲踞為恭敬。人性嗜酒。多壽考,至百餘歲者甚眾。國多女子,大人皆有四五妻,其餘或两或三。女人不淫不妒。又俗不盗窃,少爭訟。犯法者没其妻子,重者滅其門族。其死停丧十餘日,家人哭泣,不進酒食,而等类就歌舞為樂。灼骨以卜,用决吉凶。

行來度海,令一人不栉沐,不食肉,不近婦人,名曰“持衰”。若在涂吉利,則雇以財物;如病疾遭害,以為持衰不謹,便共殺之。

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。

桓、靈間,倭國大亂,更相攻伐,历年無主。有一女子各曰卑弥呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑眾,於是共立為王。侍婢千人,少有見者,唯有男子一人給飲食,傳辞語。居處宫室、楼观城栅,皆持兵守衛。法俗严峻。

自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種而不屬女王。自女王國南四千餘里,至硃儒國,人長三四尺。自硃儒東南行船一年,至裸國、黑齿國,使驛所傳,極於此矣。

會稽海外有東鳀人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬莱神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。會稽東治縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絕遠,不可往來。

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分析結果を見てみると、「黒字部分も後漢代に得られていた情報ではないか」と思えて来ます。

そのため、(魏代情報が入った三国志とは異なり)後漢書レベルの内容は、後漢代に作成された史料に書かれていたことが考えられます。

その候補としては「東観漢記」、

なお、依然として「陳書依拠説」を続けようとする考えもあると思いますが、その場合には「魏志倭人伝を見ないと書けない部分が『後漢書』倭伝にあるか?」という設問に答える必要が出てくると思います。

 

[引用元想定]

漢書地理志下 

樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云

◆同 粤地   

其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身斷髮,以避蛟龍之害

◆同 粤地  
自合浦徐聞南入海,得大州,東西南北方千里,武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃。

(この中には上記にある「故其法俗多同」は含まれないが、関係性の説明用として出て来る語句と想定して、緑字に含めた)

 

◆『魏略』逸文漢書地理志燕地、唐、願師古注)

(魏略云)倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種

◆同

従帯方至倭循海岸水行歴韓国到拘邪韓国七千里

◆同

女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也

 

以下は行程記述で、後漢書には有りませんが、参考で列挙

◆『魏略』逸文漢書地理志燕地、唐、願師古注)
始度一海千余里至対馬国其大官卑狗副曰卑奴無良田南北市糴

◆同
南度海至一支国置官与対(馬)同地方三百里

◆同

又度海千余里至末盧国(有四千余戸浜山海居草木茂盛行不見前)人善捕魚能浮没水取之

◆同

東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也

 

以上